浪花節の源流・八木亭清歌

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浪花節の源流・八木亭清歌

 人 物

 八木亭やぎてい 清歌せいか
 ・本 名 八木 ?
 ・生没年 1857年~1898年頃?
 ・出身地 ??

 来 歴

 八木亭清歌は浪花節黎明期に活躍した人物。デロレン祭文とさげすまれ、軍記物語が多かった当時に侠客物の領域を展開し、一時代を築き上げた。黎明期の売れっ子であるが、30代で夭折を遂げたという。

 経歴には謎が多く残るが、デロレン祭文時代から活躍したという。 

 師匠は桜川常吉だという。一説には常吉とは兄弟弟子ともいうが、謎しかない。

 その経歴らしいものは、正岡容『日本浪曲史』の中でわずかに触れられるばかりである。以下はその引用。

 八木亭清歌は、常吉門人で、当時に珍しい三尺物を得意とし、異常の美音で人気者だった。
 この時代の関東の浪花節は、デロレン祭文などの影響で、 説教節とさして変らない金襖物の読物が多かったのを、清歌のごとく敢然と三尺物を以って呼び掛けたのは異例で、あるいは今日の三尺物読みの鼻祖たるものであるかとも思う。
 清歌は名人肌で大酒を好み、高座へも必ず酒を携えて上り、あおりながら語るのを常として、短命だったという。
 さあ、そうすると、明治二十五年代の浪花節番附に、西の関脇を占めている清歌は、この清歌とは別人の、二代目であろうか。
 もっとも初代清歌、明治五年、十五歳で常吉の門をくぐったとすれば二十五年、関脇の栄位を占めたときは、わずかに三十五歳でしかないから、番附発行後間もなく死亡したとすれば、あるいは初代かもしれない。
 平林氏の「興亡史」は、歌三という門下生について語っており、歌三は、久世大和守の家老の息と生まれ、生来の道楽者で、近隣の小間物屋の娘を誘惑して逃亡したため、親の怒りに触れて勘当され、浪々の結果、清歌の門に入ったが、芸は一生、実を結ばなかった、と。
 これが、二世清歌では、よもなかろう。

 美声な上に啖呵がうまく、「三尺物」を浪花節の中に確立したのは大きな功績と言ってもいいだろう。

 年齢は上の「明治5年に15才で入門して」という所から逆算した。

 1888年9月、宇田川町の「笑福亭」に出演したのが最古の記録であるらしい。その時点で一枚看板だった事を考えると、それ以前から活躍はしていた事だろう。

 1889年に入ると、浪花亭駒吉や春日井文之助と共に東京浪花節の先駆けとして各寄席に出演するようになる。

 浪花節黎明期の人気は目覚ましく、駒吉や文之助さえも圧倒する人気を持っていた。粋でイナセな芸風は江戸っ子を喚起させ、大きな影響を与えたという。

 一方で酒が大好きで、いささか自堕落な所があったという。そのために寿命を縮め、浪花亭駒吉のような人材になりうることができなかったともいう。

 1895年の番付では、西の関脇に就任。大関は鼈甲斎虎丸。

 1898年頃まで浪花節寄席の一枚看板で出ている様子が確認できるが、その後は名前が消える。

 1904年の『東京明覧』には名前が出ていない所を見ると、それ以前には没した模様である。

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