寿々木宗家を継いだ寿々木米造(三代目)

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寿々木宗家を継いだ寿々木米造(三代目)

 人 物

 寿々木すずき 米造よねぞう(三代目)
 ・本 名 皆川 又三郎
 ・生没年 1914年~1980年代
 ・出身地 東京 浅草

 来 歴

 寿々木米造(三代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。二代目寿々木亭米造の養子となり、寿々木本家を継承。寿々木米若の指名で大名跡「米造」を襲名し、戦後まで活躍したが虚弱のために大看板になれなかった。

 元々は浅草の米屋の倅であったが、望まれて二代目寿々木米造の養子となった。経歴は『浪曲界』(1953年1月号)掲載の「師匠米若を語る」に詳しい。

――米造さんは見た目は未だ若いようですが、失礼ですが今年幾つになら れますか。
米 造 もうこれで三十六才ですよ、米友さんと同じでしょう。
――それにしては米友さんは非常に老けて見えますねえ。
米 友 いやあ、私は貧乏するからですよ。
小米若 米造君何か一つ話したら どうだい。
米 造 私は生粋の江戸ッ子で浅草の生れですが父が米屋をやってたんですが浪花節が非常に好きでそ関係で先代米造の許へ養子に行ったんです。そして篠田実師の弟子になつたのですが、私はその当時から米若師匠の人格や風が好きで、実際に弟子にはならなかったのですが私淑したわけです。 そして家元米造を名乗るようになつた、とこう言うわけですが。
――米造さんは二、三年前でしたか、 見た時は顔色も悪かったし、痩せておられたようでしたが、今度は顔色もいいし肥つて見違えるようですねえ。
(横から小米若師が)
小米若 あの時は米造君は一時ポン中に罹っていたんですよ。ところが彼は意志が非常に強いんですねえ今ではすっかり止めちまいましたよ。そのお蔭ですね非常に健康になりましたよ。声も出るようになりましたし――。

 米造の養子となり、浪曲師となることを望まれる。当人もその気になっていたが「自分の手元においてはよくない」と、当時の売れっ子であった三代目早川燕平に預けられた。ただ、当人は「篠田実に預けられた」と語られていてややこしい。色々な一座を出入りして芸を磨いたというべきだろうか。

 1933年に養父の米造が引退すると、父や寿々木米若から「ゆくゆくは米造」と見込まれ、早川の名前のまま寿々木一門に復帰する事となる。

 1938年の番付では、三段目前頭11枚目という中途半端な所にいる。

 その中で着々と実力を積み上げていき、米造にふさわしい芸を築き上げていった。米造の教えや米若の忠告もあったのか、米若一門では珍しく関東節を得意とし、読み物も米造系のものが多かった。

 1941年1月、寿々木米若の後見の下に浅草昭和座で「早川三平幹部昇進」を行っている。

 1942年4月には米若一座に入り、軍事慰問に出掛けている。「陸恤庶發第二二五號 船舶便乗ニ關スル件申請」(昭和十七年四月十八日)に、

一、復航 昭和十七年五月下旬   塘沽發 宇品行
北支派遣慰問團員表(八名)
種 目   藝 名    本 名    年令  
浪 曲   壽々木米若  藤田松平   四四 
司 會   大里實    仝 上    四二  
浪 曲   壽々木松若  田材清松   三〇 
曲 師   一風亭静枝  柿添静枝   三二 
浪 曲   吉田一樂   柿添直右エ門 三七
 仝    木村重好   神田謙治   四三
曲 師   抱井松露   抱井圭一   五二
浪 曲   早川三平   皆川又三郎  二八

 とあるのが確認できる。

 1943年の番付では、2段目前頭・12枚目。

 1944年、養父の米造死去。喪主として葬儀を出し、米若から「三代目米造」の地位を約束される。

 1945年春、大神楽の巴家松太郎、漫才の桂文弥・里子などと共に満洲慰問に出発している。この慰問団は間一髪のところで帰国でき、満洲抑留をされる事はなかった。

 しかし、戦中に覚えたヒロポンから中毒にかかり、芸も舞台も迷走するという遠回りもあった。

 上の対談で「あの時は米造君は一時ポン中に罹っていたんですよ。ところが彼は意志が非常に強いんですねえ今ではすっかり止めちまいましたよ。そのお蔭ですね非常に健康になりましたよ。声も出るようになりましたし――。」といわれているが、一時期は病気になる程であったともいう。

 1948年に、米若の推薦で「三代目寿々木米造」を襲名。ヒロポン中毒など問題も多かったが、周りの叱咤激励で遂にヒロポン中毒を克服し、舞台に復帰した。

 1950年の番付では、佃雪舟、花村伸などと共に新鋭に出されている。

 1953年の番付では、遂に1段目に上り詰め、大幹部となった。前頭17枚目。

 1955年の番付では、前頭13枚目。

 1961年の番付では、前頭14枚目。

 1964年の番付では、「名流」として選出されている。

 しかし、1970年代に入ると体調を崩すようになり引退。遂に大看板になることなく、余生を送った。

 それでも浪曲界と縁を切る事はなく、1978年に秋津洲雄鳳が「寿々木の名がほしい」と相談してきた際、快く彼を名前弟子に迎え、米若と米若夫人に相談し、「寿々木一若」の名を譲り渡している。

 1980年代まで健在だったというが――

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