名人の兄と二人三脚・港家柳子

浪曲を彩った人々

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名人の兄と二人三脚・港家柳子

 人 物

 港家みなとや 柳子りゅうこ
 ・本 名 掛川 キミ子
 ・生没年 1917年2月15日~1994年以降
 ・出身地 山梨県 南都留郡

 来 歴

  港家柳子は戦前戦後活躍した浪曲師。戦後の名人・四代目港家小柳を兄に持ち、自身も二代目港家小柳丸に就いた浪曲師。戦後の若手コンクールで優勝する程の実力者であったが戦後に浪曲三味線に転身した。

 平成まで健在だった事もあり、芝清之『東西浪曲家大名鑑』にその経歴が詳しく出ている。

 山梨県南都留郡小立村の出身。
 独特の当意即妙のマクラで、人気のあった四代港家小柳の妹に当る。 彼女も兄に習ってか、昭和13年に二代港家小柳丸に入門して女流浪曲家を志した。 芸名を”港家柳子”と名乗って、 入門した年に東京築地の喜扇亭で初舞台を踏んだ。
 兄の小柳は初代小柳丸門下だったが、妹の方は二代に仕えた。
 修業を終って東京の各座で活躍していたが後に関西に下った柳子は、宮川松峰と縁あって結婚した。 松峰、柳子夫妻に加えて、松峰の妹にあたる高山紀美子と、その夫の吉田寿美造の4人で一座を組んで、しばらく各地を巡業したという。
 昭和30年代のことというが、この頃から彼女は浪曲を語りながら、三味線の勉強を始めた。 夫の宮川松峰が、昭和44年に他界してから、兄小柳の合三味として本格的に弾き出し、完全に曲師に転向したのである。独特の小柳節に柳子は苦闘しながらも頑張った。人一倍三味線にはうるさい兄の良き合三味として尽したが、同48年2月、小柳は突然に他界した。兄としても心強い合三味が出来て、安心していた所であろうに……。 運命の徒か、柳子は夫に続いて兄まで失った。 小柳の亡き後は、三代広沢駒蔵の合三味を勤めていたが、健康を害し兵庫県中町の自宅で静養につとめた。 その甲斐あって元気を取戻し、現在はフリーの曲師として活躍してい る。

 実家は山梨の農家だったそうであるが、余り立派な家ではなかったという。兄の小柳は幼い頃に肥溜めに落ちて目を潰している。

 当初は普通に働いていたようであるが、兄が売り出した事に加え、自身も浪曲が好きだった事から兄の斡旋で二代目港家小柳丸に入門。小柳丸は当時売り出しの浪曲師として知られていた。

 兄は初代の弟子であったが、柳子は二代目に仕えた。兄妹ながら芸の上では叔父と姪の関係であったのだからおかしい。

 因みに港家柳子という名跡は二代目に当たる。初代は港家大夢の弟子であったという。

 戦争が近づく中で独立し、地方巡業や寄席出演で少しずつ頭角を現すようになる。若いころは師匠譲りの「亀甲組」「深川裸祭り」「国定忠治」といった威勢のいい話を得意にしていたという。

 後に関西へ移籍し、宮川松安門下の「宮川松峰」と結婚。

 1948年、日本浪曲協会の活動の一環で立ち上げられた「新人コンクール」の予選に出場。並みいる実力者を制して本戦に出場。

 同年12月30日、浪花家辰造、広沢虎之助といった優勝候補を差し置いて優勝。東武蔵、玉川勝太郎、長谷川伸といった関係者から絶賛を浴びた。

 戦後は夫の松峰、それに夫の妹・高山紀美子と、その夫の二代目吉田寿美造と巡業。若い寿美造を前読みにし、夫婦で仲良くトリを取ったという。

 関西と四国では相当に人気があり、柳子自身も相応の看板であった。「港家」の直門であった事も大きなメリットだったようである。

 その中で、浪曲三味線の必要性を感じ、独学で三味線を覚えた。浪曲師として舞台に出る傍ら、三味線弾きとしても高座に上り、座員の三味線を弾いて様々な手を勉強をした。

 1960年代に入ると浪曲の仕事も少なくなり、夫の松峰が病むようになったため、曲師として出勤するようになった。関西浪曲親友協会に属し、曲師として高座に上るようになる。

 1969年、夫の松峰が死んだのを機に浪曲師を廃業。三味線曲師一本で生きるようになる。

 夫の死の前後で兄の小柳が三味線を探していることを知り、兄妹でコンビを結成。音感に強い兄の小柳は少しでも変な演奏をすると叱咤を飛ばしたというが、大幹部だけあって多くの浪曲大会やメディアに出演。いい勉強にもなったという。

 兄の公演にしたがって5年ほど付き添い、名曲師として徐々に頭角を現すようになった。

 その間に「亀甲組」「東海遊侠伝」などローオンから発売している。

 1973年2月、兄の小柳が急逝。死ぬ直前まで一緒に仕事をしており、守田勘彌・坂東玉三郎親子の前で浪曲を演じていたが、その数日後に小柳は自宅で倒れ息を引き取った。

 小柳の亡き後は、大阪へ戻った。その後、浪曲界へ復帰したばかりの広沢駒蔵の相三味線となって行動を共にするようになる。

 駒蔵は徹底的なケレン読みで兄の小柳とは全く違う芸風であったが、駒蔵の自由奔放な節をよく助け、駒蔵の看板を引上げる事に成功している。

 1980年代に入ると患うようになり、高座から退いた。時折駒蔵の舞台に出て三味線を弾いていたというが、第一線に戻る事はなかった。

 1991年頃に浪曲親友協会を離脱し、隠棲をした。ただ、その間も浪曲師との関係は持っていたという。

 1995年、宮川女左近が「5代目小柳」襲名を所望したため、関係者が間を取り持った。柳子はこの所望を了解し、「ぜひとも大名跡は残したい」と師弟関係のない宮川女左近に快く「港家小柳」の名を譲った。

 その後もしばらく健在であったらしいが没したという。

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