夭折したという京山文斎

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夭折したという京山文斎

 人 物

 ・本 名 ??
 ・生没年 ??~1930年頃
 ・出身地 大分

 来 歴

 京山文斎は戦前活躍した浪曲師である。京山若丸の門下生から梅中軒鶯童に師事して、芸を磨いた。鶯童にして「将来大成疑いなし」と絶賛されるほどの芸と態度の持主であったが、胸の病に倒れて夭折した。

 前歴には謎が多いが、京山若丸の門下生からスタートをしたという。『浪曲旅芸人』の中に、

私の家には門人の他に、他門から修業に来ている者が三名いた。左門、扇右衛門、若王丸。若丸先生から預かっていた若王丸が胸部疾患で郷里土佐の名野川へ療養に帰ることとなって、その身代りにと、次いで年期明けとなった弟弟子の京山文斎という男を私に預けて自分は土佐へ帰った。この文斎という男、さすがに若丸先生お仕込みだけあって、人間的にも立派だったが芸道熱心で、その精進振りにも感じ入った。

 とある。

 1927年には既に一枚看板として売り出しており、7月25日から29日までの5日間、JOCK(NHK名古屋)から「浄瑠璃の鏡」「太刀山と芸者」「槍の安藤」「大瀬半五郎」「貞夫菊の井」を連続口演している。JOCKとはいえ、既に力量は信頼されていた模様である。

 鶯童の記載を正しいとするならば、1928年頃に鶯童の身内となった。

 芸熱心の上に、鶯童や先輩に批評を乞い、悪い所を直してドンドン工夫していくというスタンスを取った。その芸熱心振りは芸の鬼として知られた鶯童も舌を巻くほどで、

 この七月、久しぶりの寄席働きで新花月世界に出演、私と共に彼も前座で出演させた。毎夜舞台から帰宅すると、今日の舞台は××を口演しました、こういう語り口でやりましたが如何でしょう……と私が寝ている次ぎの部屋、二階三畳の部屋で舞台の再演、多少の批判を加えると根気よくその場で練習を繰り返すのである。彼の才能とそしてその勉励努力を以てすれば、将来大成疑いなしと、大いに期待したのであったが……

 と、絶賛をしている。

 しかし、その直後に胸部疾患を患い、地元・大分へ帰ることとなった。2年ほど、療養生活を送っていたらしいが、遂に再起することなく、その若い命を散らした。兄弟子の京山若王丸は、文斎の容態を案じ、復帰を心の底から望んだが、若王丸より先立つ結果となった。

 鶯童は文斎を回顧して――

 天才薄倖というのか、その翌月に胸の病を得て故郷大分に療養のため帰国したまま遂に起たず、二年間の療養も甲斐なく故郷の家で死んだ。この療養期間中、若王丸は文斎の家庭の豊かならざるを知っていたので、みずからの療養費を割いて、そして自分が再び舞台に立つことになってからはその収入の大部分を、文斎のために仕送っていた。文斎が死んだと知った時、
「才能乏しい自分など生きていなくてもいい筈なのに、出来る事なら身替りになってやって、才能豊かな文斎を生かしておいてやりたかった」
 といって泣いた。今どき珍らしい美しい話である。

 1928年8月に倒れたので、逆算をすると1930年頃に没した事になる。

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