楽燕の親類?東家左楽燕

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楽燕の親類?東家左楽燕

 人 物

 東家あずまや 左楽燕さらくえん
 ・本 名 山崎 与三郎
 ・生没年 1892年11月14日~戦後?
 ・出身地 ??

 来 歴

 東家左楽燕は戦前活躍した浪曲師。東家楽燕の高弟で、彼の直弟子で数少なく「楽燕」の名を名乗ることを許されたことを自慢にしていた。一説には楽燕の親類であったともいう。

 前歴には謎が多いが、『読売新聞』(1928年1月14日号)に、

左楽燕さんは楽燕の愛弟子であるのみならず、親類筋にも当つてゐる。十六歳の時故郷信州を後にして楽燕の門下生となつた、入門後も一生懸命に稽古し乍ら、師匠の情によって海城中学に学んだが卒業後引続き芸道に精進し、真打となったのは一昔前の事である。此の芸名左楽燕は楽燕一家の芸名としてはめつたに許さない名である。

 縁故の東家楽燕を頼って浪曲師になった模様か。楽燕同様に海城中学を出ているのが凄い所である。楽燕から目をかけられていたのだろう。

 生年と本名は『歌舞音曲趣味の人』から割り出した。

 東家楽燕から薫陶を受け、早くから東家一門の出世株として売り出した。ネタも師匠譲りの「義士伝」「召集令」「西郷隆盛」「乃木将軍」といった雲右衛門系のネタ、明治・戦争物の作品を演じた。

 1928年1月14日、「乃木将軍浜松美挙」をJOAK(NHK東京)から放送している。

 1930年、自身を座長にして寿々木亭越造、吉田伊左衛門、天中軒如雲月、松風軒栄蔵、三味線・森ふみ子と共に渡米の計画が立った。

 当時の日系新聞『日布時事』(2月9日号)を見ると、

先づ第一番にやつて来るのは浪花節の東家左楽燕の一行五名である。招聘者は木村興行部(木村兵三郎氏)。左楽燕は東家楽燕の高弟で、昭和四年東京立志社発行の番付に依ると、東方前頭に据えられて居り先般来布した寿々木米若と同列である。他の一行は寿々木越造(もたれ)以下吉田伊左衛門、松風軒栄蔵、天中軒小入道改め天中軒如雲月、三味線は森ふみ子である。

 越造のみ、この顔ぶれから落ちたが、残る4人で1930年4月に渡米。ハワイへ降り立った。当地では楽燕系のネタを読みこなし、まずまずの人気を獲得したという。

 しかし、ほぼ同時期に渡米した米若とは違い、第二の楽燕になる事もなく、楽燕を襲名する事もなかった。あくまでも中堅にとどまってしまったのは、有り余る覇気がなかったのではないか。

 1941年頃の浪曲番付を見ると「旧幹部」として扱われている。旧幹部であるが、名前が出ている事を考えると健在だったのは事実だろう。

 戦後、番付が復活するものの、なぜか名前が消えている。

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