バイオリン浪曲の旭市子

浪曲を彩った人々

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バイオリン浪曲の旭市子

バイオリンを持った市子

 人 物

 あさひ 市子いちこ
 ・本 名 島 市子
 ・生没年 1902年12月~戦後?
 ・出身地 徳島県 徳島市

 来 歴

 旭市子は戦前活躍した女流浪曲師。6歳で初舞台を踏み、昭和初期、関西を中心に大変な人気を集めたという。なかなか進歩的な人物で、浪曲とバイオリンの合奏を試みるなど、お嬢様系の浪曲師であったと聞く。

 経歴は『浪花節名鑑』に詳しく出ている。まるまる引用してしまおう。

 嬢は徳島市佐古町二丁目の酒造家に生れ幼にして遊芸に天才あり五才の時祖母に連れられて一夜浪花節を聞きしに翌朝早速節及会話を似ねて家人を驚かせり爾来独特の天分に発揮せられて技益々進み明治四十五年四月七日神戸相生警察署小林署長の懇望に依り全署内に挙行せられたる明徳婦人会の余興に出演して非常なる賞讃を受け感謝状其他の寄贈品を受けたり。
 其後堂島座に於て敷島大蔵のモタレを読み十一歳にして東京バテー館其他にて座長を務む。 
 嬢には別に師匠なくして今日の栄位を得たるは全く天才的の芸術と天性の記憶力にて此点にては嬢の右に出るものなし、加ふるにバイオリン、三味線、琴、浄瑠璃、長唄、清元、端唄等として可ならざるなく浪界少女の明星として人気沸騰せしめつつあるは又当然なり大正三年に至りて後援者より嬢は渡米を薦められ居たるも家庭の都合上其機会なかりしが、在米知名の士より切なる勧告を受け愈々本春渡米せらるるに決せり 嬢の前途や更に洋々たるもの有らん。

 後に父親は三味線奏者となり、造酒の職をなげうって、市子の後見をしたというのだから、すごい話である。

 6歳の時に初舞台を踏む。相当早熟な少女である。当時、雲右衛門や奈良丸が鎬を削るように演じた『義士伝』が得意だったという。

 1913年、浪花家筆虎などの「女流演芸団」に参加し、11歳にして天才少女として売り出される。

 以来、東京の劇場や地方公演で人気を集めた。ただ、震災以降は大阪に戻ったそうで、親友組合に参加する事となった。

 1920年代には、大阪愛進館で根強い人気を集めたという。この頃からバイオリンと浪曲を組み合わせた浪曲や、余興としてバイオリンを引っ張り出して安来節や民謡を演奏するというスタイルを確立したという。

 1924年3月、ハワイの興行師に誘われて渡米。

 4月3日、ハワイへ上陸。『ハワイ報知』(3月25日号)によると、

市子は年若で且つ美人、バイオリンも中々上手であると云ふ評判であるが一行の顔触れは次の如くである 
 前座青年花形 廣澤友丸 
 真打座長   廣澤加津丸 
  同     旭市子 
 三味線    廣澤島吉 
  同     廣澤芳子

 因みに、『ハワイ報知』(4月6日号)に、

 旭市子は大阪の出身で常設館は愛心館と云ふ、女流浪花節のみが出演する所で、愛心館の人気を一身に集めて居る。美人であり且つ美音である、大向が騒ぐも亦無理からずだ 三味線の廣澤島吉は市子の父親で、娘の監督旁の來布。同じく三味線で廣澤芳子は加津丸の妻君ださうである。

 と詳しい素性が出ている。

 ハワイ各地を巡演し、十八番の義士伝を武器に活躍。美貌とバイオリン演奏もあって大入を記録したという。

 9月、ハワイを離れアメリカ本土に出発。19日に到着している――と日系人新聞『新世界』にある。

 1年近くアメリカ本土を巡演し、6月に帰路に就く。途中ハワイによって、お名残りをした後、日本へと帰って行った。

 その後も大阪の女流として活躍していた模様。

 1929年4月12日、熊本放送局より『袈裟御前と盛遠』を放送している。

 1932年1月31日、大阪放送の「浪花節大会」に出演。『孝子迷の印籠』を放送している。共演は浪花家筆子、日本菊子。 

 戦時中頃まで居たようであるが、その後の消息が不明。結婚して身でも引いたのだろうか。

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