[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
雷門助六の父・浪花亭駒右衛門
人 物
浪花亭 駒右衛門
・本 名 島岡 彌吉
・生没年 1866年3月27日~1921年頃?
・出身地 東京?
来 歴
浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浪花亭駒吉門下の一人であった。意外や意外、この人の息子は七代目雷門助六、孫は太神楽の鏡味小次郎である。三代続いた芸人というわけ。
本名・年齢は『芸人名簿』より割り出した。
経歴等には謎がやや残るが、元々は風呂屋の三助であったという。浪花節が好きだったことに加え、当時出世の象徴であった山高帽子に憧れ、「山高帽をいかに早く被れるか」と己の境遇と照らし合わせた時、浪花節が手っ取り早いと思って浪花節になったという変わり種。
この事は、大正時代の処世本にも記されるほど有名な逸話だったらしい。山崎藻花『凡人の処世策』の中に、
浪花節藝人の浪花亭駒右衛門は元湯屋の三助であつた、彼は一の志をたてた即「如何にすれば最早く山高帽がかぶれる乎」と云ふのであつた而して彼は其目的を達す可く藝人即浪花節語りになつたのである、今日は一方の真打として望の如く山高帽をかぶるを得て得意なのである。
とある。
風呂屋の三助を辞めて、浪花亭駒吉に入門。1880年代には既に弟子の「駒造」を抱えていた所を見ると、古株の一人だったのだろう。
1896年には既に一枚看板としてトリを務めている所から、出世も早かった模様か。
駆け出しの時分は「浪花亭菊造」と名乗っていたそうで、駒吉と死に別れるまではこの名前であったと聞く。
1899年11月、息子の大助が誕生。この子は、二代目三遊亭金馬や柳家金語楼門下を渡り歩いた末に、七代目雷門助六を襲名している。父親の背を見て芸人になった模様か。
これは一心亭辰雄が『浪花節一代』の中で、「今の雷門助六のお父さんにあたる綱右衛門という人……」と発言しているほか、やはり古老の浪曲師、春日清鶴が、『川柳しなの』(1957年7月号)に掲載された正岡容との対談の中で、
清鶴 昔、浪花亭駒右衛門という人がありましてね。これはお年寄りの方はご存じでしょう。ハゲ駒といって頭がツルツルしていた。その人の倅が落語の助六、今の。
正岡 雷門助六。
清鶴 さようで……。
と発言している。
なお、駒右衛門は、同門の浪花亭峰吉や一心亭辰雄、また初代の東家楽遊と仲が良く「浅草派」の幹部として活躍。早川辰燕率いる神田派と鎬を削りあった。
弟子の中でも、高弟の駒造は天才秀才の誉れの高い自慢の弟子だったそうで、頭に大きな瘤があった所から、「コブの綾造」と呼ばれた。駒吉の覚えもよく、駒吉の節を改良して、巧みに演じるだけの腕があり、浪花亭の大看板として期待されたが、1907年に28歳の若さで夭折している。
1906年、駒吉と死に別れ、その後に起こった浪花亭一門のお家騒動(二代目を巡るトラブル)に嫌気が差したのか、駒右衛門と改名。11月には既にこの名前で出ている。
同時期に弟子の綾造にも「駒造」と改名させたが、翌年、駒造と死に別れる悲劇に見舞われている。
若い頃から禿げていて、「ハゲ駒」というアダ名があったという。若い頃は尺八に琴を入れた三曲浪花節で人気を集めたそうで、才覚もあった。『川柳しなの』(1957年7月号)で清鶴が、
清鶴 ショッパナに売出した芸というのが尺八に琴を使って……。
正岡 ほほう。
清鶴 これに合せて浪花節で三曲合奏というわけです。
正岡 ほほう、成程。
清鶴 神田の市場亭などで評判をとった。
と語っている。後年は普通のスタイルに戻して、浪花亭の大看板として君臨した。結構後年まで活躍する事となる。
私生活では大変なスケベ親父だったそうで、堅物で知られた春日亭清吉・清鶴師弟を唖然とさせた程の奇人であった。『川柳しなの』(1957年7月号)の中で清鶴は、
清鶴 これがハゲ駒といいましてな。なんだかてまえエロ話を申上げますようですが……私自身は至って固いのでございますけれども(笑)……この駒右衛門という人は非常にエロの達者なおやじで、ずいぶん昔からいかがわしいことをやったおやじでしてな。人間はエロだったが。
正岡 高座は真面目で?
清鶴 さよう好い声でしたな。だがみなさんの前ではしゃべれないことばかりですから。
正岡 そんなひどいことをしてたの。
清鶴 いやもう実に……だってうちの師匠(清吉)の姐さん(妻女)なんざあビックリしたもので、第一亭主の清吉師匠のいる前で、お前の前をまくってみせと/\ってエロを発揮するんですからな(爆笑)師匠のお上さんは、おひさといいましたがな。
正岡 こりゃひどすぎるネ。(爆笑)
清鶴 うちの師匠の姐さんも変った人でしたから相手が現在師匠の前で。「おい、前をあけてみせろ」ってんで「そんなに見たかったらおンさんごらんなさいよ」って前をまくって(爆笑)これにはさすがのハゲ駒も頭を下げて「これはダメだ」(爆笑)今晩は警官のいらっしゃらない席ですから、本当のことを申し上げましたんで。
倅の大助が、出世をする前に亡くなったらしいが――晩年は引退したそうなので謎が残る。
後に浪花亭菊翁と改名し、事実上の引退となった。
1922年1月15日より、和泉町・金網倶楽部で二代目浪花亭駒右衛門襲名披露公演が行われているので、それ以前には死んでいたか、引退したか。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]
コメント