寿々木米若の育ての親・寿々木亭米造(二代目)

寿々木米若の育ての親・寿々木亭米造(二代目)

 人 物

 寿々木亭すずきてい 米造よねぞう
 ・本 名 皆川 八太郎
 ・生没年 1878年9月17日~1944年4月2日
 ・出身地 新潟県

 来 歴

 寿々木亭米造は戦前活躍した浪曲師。寿々木米若の師匠として知られる。米若に負けぬ芸豪として知られ、関東浪曲界の雄であった。寿々木亭一門の隆盛を築き上げた一人。

 生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。ただ、「壽々喜亭米造 三 同同 皆川八太郎(明治一〇、九、一七)」とあるのだが、享年が65才であるのを考えると、明治11年が正しいように思われる。

 米若の妻・藤田延が『月刊浪曲』(1987年9月号)で語った所によると、4人兄妹の長男。八太郎、女、松三郎、安太郎(寿々木亭越造)という順番であった。弟・松三郎の息子が寿々木米若である。

 ただし、米若自身が『稲の花』で語った所によると「自分の父の兄が初代米造」であるそうで、「父は酒を飲むと兄の米造が生きていれば浪曲で天下を取れた」と泣いたという。そうした話を聞いて育った米若は「孫弟子にあたる二代目米造に弟子入りをした」という。

 一言で言えば米若とは血縁関係はないのである。なのに「二代目米造と米若は親類」と紹介されている。

 28歳の時に実家を飛び出して上京。寿々木亭小米造に弟子入りする。

 ただ、実家の父母とは仲が悪くなく、後年まで親孝行を重ねたそうで、「孝行息子の米造」と噂されるほどの人徳者であった。

 小米造の弟子になり、「寿々木亭馬生」と名乗る。当時はまだ劇場に浪曲が余り出ない時代だった事もあり、寄席を中心に腕を磨いた。

 初代玉川勝太郎、木村重勝と仲が良く、兄弟分の契りを結んだ。ネタの交換や遊びをするなど、兎に角仲が良かったという。

 甥の米若とは違い、咽は弱く小音であった。それでも粋で洒脱な関東節を得意とし、どちらかというと啖呵を聞かせる寄席向きの浪曲師であった。「夕立勘五郎」「越後伝吉」「鋳掛松」「大久保政談」といった如何にもイナセなネタを得意とした。

 そうした努力が実を結び、「二代目寿々木亭小米造」を襲名。師匠は夭折したと聞く。

 1913年冬、寿々木亭米造を襲名した模様か。以来、「寿々木亭宗家」と名乗るようになる。

 1919年、初代米造の甥が「浪曲師になりたい」と相談して来たので上京を勧めた。11月10日、松平は上京を果たし、間もなく米造に入門。「寿々木亭米若」として舞台に上がるようになる。

 米若の美声と風格に期待をかけた米造は、自身の意向で彼を二つ目から修業をさせ、幹部になるように仕込んだ。米若の得意ネタである「籠釣瓶」や「鋳掛松」などは米造由来であるという。

 また、米若が金に困ると「若、金が無いんだな」と何食わぬ顔で小遣いを渡したり、いつも米若や弟子たちを案じるなど、優しい師匠として知られた。

 1921年4月1日、米若は真打となった。南千住・柳亭の真打披露に出席し、米若の門出を祝った。この真打昇進と前後して、米造は自分の家に出入りしていた浪曲三味線の藤田延を認め、米若の妻としてめとらせた。

 震災後、米若と一緒に、寿々木亭の「亭」を抜き、「寿々木米造」と名乗るようになった。

 1928年12月、米若の一座に同行してハワイへ巡業。米若を座頭に、米奴、千代子が随行。米若人気も相まって、各地で凄まじい人気を呼んだという。

 米造は前座として飄々と読んでいたというが、時には米若を食う程の実力を示したともいう。この巡業で米造は「寿々木宗家」と紹介されている。1929年7月に帰国。

 その後、「佐渡情話」で一世を風靡した米若の後見人・一座の古老として活躍。古風な関東節を得意とし、好事家を唸らせた。

 一時期、米若に「米造」の名前を譲ろうとしたらしいが、頓挫。さらに米若の弟弟子で住み込みをしていた米春を養子にして「米造」を襲名させる計画が立ったがこれも頓挫。

 最終的に息子(養子だったらしい)の又三郎を「三代目米造」に指名し、米若と共に養育する方向性で決まった。

 1933年8月、神田喜楽の仕事を最後に引退した模様か。「新演芸」(1946年12月号)の井口政治『浪花節の変り種』によると、「晩年は本所で床屋を開業したとか聞いて居ます。」とある。

 その後は楽隠居を続け、1944年4月2日、終戦を知ることもなく、65歳で亡くなった。墓は東京・光蔵寺にある。

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