三代目虎丸の秘蔵弟子・鼈甲斎吉右衛門

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

三代目虎丸の秘蔵弟子・鼈甲斎吉右衛門

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 吉右衛門きちえもん
 ・本 名 土田 清太郎
 ・生没年 1901年〜戦後
 ・出身地 大阪

 来 歴

 二代目鼈甲斎吉右衛門は戦前活躍した浪曲師。三代目虎丸の門下生で、師匠の前名「吉右衛門」を許されるほどの麒麟児であったが、早くに浪曲を止めてしまった。

 10代になるかならないかで三代目虎丸に入門。当時人気絶頂の虎丸に厳しくも可愛がられて育った。

 『読売新聞』(1926年6月18日号)にその経歴が出ている。

 演者は鼈甲斎吉右衛門本名土田清太郎(二四)は虎丸師の子飼の弟子で小虎丸と並称せられる此の派の大事な人

 同紙によると、読み口ははんなりとした関西節を得意とし、ケレン物に独特の味があったという。虎丸を私淑しながらも中京節を演じない所に独自の人気があったと見るべきだろう。

 出身が大阪だけに、関東よりも関西の人気が高く、一年の半分は関西、残りの四ヶ月は巡業、余った二ヶ月だけ東京に出る、という不規則な出演をしていた。

 10代半ばにして一人前となり、「鼈甲斎吉右衛門」の名を譲られた。この名前は師匠の三代目が若手の頃に名乗っていたものであり、事実上後継者と目されていたとも解釈できる。

 1919年8月26日~9月1日、京都夷谷座で行われた「鼈甲斎虎丸・天中軒雲月合同公演」の前座として出演。『近代歌舞伎年表京都篇』によると、「二十八日 寛政力士傳」、「二十九日 雷電と小野川」を口演している。

 成人後は師匠の一座から独立し、鼈甲斎一門会の青年部に所属する傍ら、全国巡演をしていた。関西節的な節廻りと喋りを得意としていた事もあってか、関西で人気を博したという。

 1926年6月18日、JOAKから『山内一豊の妻』を放映している。

 このときの曲師はなんと、師匠虎丸の相方で名人とうたわれた鼈甲斎ひさご。本名、荒井かねといい、師匠虎丸の妻でもある。

 名人だけにプライドも高く、虎丸以外はめったにひかない専属三味線のような存在であったが、放送のために特別に腕をふるった、という。美談の一つであろう。

 1936年10月の番付「東西浪界大見立」では「東二、前頭」。

 師匠虎丸が健在の時は、ちょくちょく活躍が確認できるのだが、虎丸が病気になるようになると徐々に表舞台から消えてしまうようになる。

 1938年、師匠の虎丸が急逝。残された弟子たちは四代目虎丸襲名戦争に巻き込まれるが、吉右衛門は殆どその戦争に関与しなかった。結局、かつてのライバルと謳われた小虎丸が四代目を襲名している。

 1941年の番付では、西の新鋭の一人としてランクイン。

 敗戦後、なぜか廃業してしまった。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました