木村派宗家・木村重勝

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木村派宗家・木村重勝

 人 物

 木村きむら 重勝しげかつ
 ・本 名 西田 与八 
 ・生没年 1867年5月1日~1945年9月28日
 ・出身地 青森県

 来 歴

 木村重勝は浪花節黎明期から昭和にかけて活躍した浪曲師。芸は優れなかったが人格は浪曲界随一と謳われ、「木村」の屋号を一代で名門のものとした。重松、重友、重正など名人上手を輩出し、浪曲界発展に尽力を注いだ。

 父は津軽藩士で、名門の家柄であったという。父の主君は「木村織部忠勝」という人物で、後年これを芸名のヒントとしたらしい。

 明治維新で父は職を失い、間もなく上京。浅草で育ったという。

 若い頃は政治家や官吏に志があり、法学の勉強をしていたという変わり種でもあった。ある私立大学の法科を卒業したというのだから当時としてはインテリであった。同じく法科出身の浪花亭峰吉と双璧的な存在と謳われたという。

 しかし、官吏や法律家にはならず浪花亭駒吉に入門し、浪曲師になってしまった。駒吉について寄席や巡業に出たほか、他流試合にも出かけ、芸を学び取った。

 入門時から変わっていたそうで、『川柳きやり』(1930年5月号)の、石谷まさる『浪花節昔ばなし』の中に、

 (一心亭辰雄の初舞台と)これと前後して駒吉一座に一人の書生風の男が現はれ、都川の高座で瑞典と丁抹であつたか何でもそんな外国の浪花節をうなつた、其頃の浪花節としては随分突飛な此読み物に聴衆は些か面喰つたのであつた、これぞ後に斯界の変り者としておン大と呼ばれる浪花亭重勝、即ち今の重友の師匠木村重勝で、やはり此当時始めて高座に上つたのであつたことはおン大重勝の語る処

 一心亭辰雄によると、「重勝は自分の弟弟子」との事であるが、これは眉唾である。辰雄は明治25年入門なので、それ以降の入門になるわけだが、明治20年代後半に既に一枚看板を上げている所を見ると――

 明治20年代後半には既に一枚看板となり、「浪花亭重勝」の看板を掲げた。

 1890年代より既に弟子を抱えるようになり、雲右衛門に逃げられ、日雇いの肉体労働をしていた吉川繁之助を弟子にし、「木村重松」。車夫上がりの「木村重治」。さらに、千葉で巡業中に弟子入りを乞うた青年に「木村重子」。木村重松の弟子になりそびれた29歳の「木村重友」――と、多くの訳アリの弟子を抱えた。

 とにかく人情味はあったそうで、雲右衛門に置いていかれて腐っていた木村重松の育成と売り出しに腐心。

 29歳にして「浪曲師になりたい」と願い出た重友に「一席やってみな」と言ったら、見事な美声と啖呵に目を丸くし、「よしすぐに寄席に出してやろう」と、仲間の反対を押し切って寄席を掛け持ちさせ、入門一日目で25銭を支給し、貧乏だった重友を感動させるなどした。

 一方で、芸はあまり上手くなかったそうで、やもすれば下手くそともいわれたという。

 その悪評は、1900年代からあったそうで、『天鼓』(1906年2月号)の浪曲批評の中に、

▲浪花亭重勝
重勝の門弟に重松といふ者あり、押し出しも立派にて声も充分にあり、藝は未熟なれども、売れッ児の一人也。
重勝の門弟に重治といふ者あり、節を様々に苦心して俗に所謂思案に能はぬ傾きあり、されども真打也。
重勝の門弟に重子といふ者あり、年齢僅かに二十二にして已に真打也、しかも其技藝亦侮る可らざるものあり。
重勝の門弟に真打ち三人あり、重勝は弟子作りの名人也、而して三人とも重勝以上の売れッ児也、技倆は弟子師匠似たり寄ったりなる可しら、
重勝遠からず業を廃して、門弟の掬育と同業者の団結に力を注ぐべしと、誠に好き分別といふべし。重勝は元来高座の人にあらず、然れども話しは少しく分かる方なれば、退いて楽屋王たらんとするは人助かりも身助かり、最も策の徳たるもの歟

 と、弟子育成はうまいけど芸は拙い、と容赦なく切り捨てられている。まだ30代の油のノリ盛りにして、この時点ですでに「一線を退いて、後進の育成をした方がいい」とまで言われているのは哀れである。

 1907年3月5日の『国民新聞』で浪曲批評が出たが、重勝はなんと、

重勝、悪い事は云はぬ早く廃業しなさい

 とボロカスに貶されている。

 1907年6月に、「浪花節大演芸会」が開催された際、『赤垣源蔵』を読んだが、『読売新聞』(6月25日号)の中で、

 △重勝、赤垣源蔵の一駒に「回向せうとてお姿を」の十種香張りを露骨に応用したるは考へが浅い

 とけんもほろろである。

 一方、本気を出せばうるさい客を黙らせられるほどの実力はあったそうで、下手くそ一辺倒というわけでもなかったらしい。『浪花節一代』の中で、一心亭辰雄は、

「二六新報の仕事で、重勝と群馬県を巡業する事になった。高崎では大うけだったが、前橋では全然受けない。自分も蹴られてすごすご降りた。入れ替わって上がった重勝が『辰雄は仲間内でも名人という男です。それを降りろ降りろとは御当地の御客様は芸をお聞きになる耳の持ち合わせがないのではないか……』と凄まじい啖呵を切った。『中山安兵衛の印籠取り』を語り始めたが、五分くらいするとまた騒ぎ始める。すると重勝は『この重勝の芸がどんな芸だか、お客様にはわからないと見える……お前らが騒いだところで勧進元が良しと言わなきゃ、俺は金輪際ここから降りねえ』とべらんめえで客を怒鳴りつけた。そして騒ぐ客をいなすように『安兵衛』の続きを語り始めると、いつしか客は黙り込み、五十分の間、長講をせしめた。最後は喝采に変わり、重勝は舞台に降りた。一部始終を見ていた辰雄は『重勝はうまい物だ……』と感心した」

 という旨を回顧している。他がうますぎるだけで、当人が引き立たない、とでもいうべきだろうか。

 円満人徳で、頭もよく、もめ事を持ってこられてもこれを処理できる才能があった。人事や事務の方には天才的な才能があったようである。

 一方で骨のあるところもあったらしく、1910年頃、木村重友が静岡に巡業の際、二代目浪花亭駒吉(元・綱吉)と一緒になった。二人は近くの小屋で競争する事となったが、今売出しの木村重友に客が多く入り、駒吉には閑古鳥が鳴いた。

 重友に勝てないと見た駒吉は入場料を三銭までに下げ、挙句の果てには景品まで出して客を集め始めた。

 この一部始終を見た重友は帰京するや師匠の重勝に相談。すると重勝は烈火のごとくに怒り、駒吉の家へ談判に出かけた。重勝は駒吉の名跡の大きさを説いたが、駒吉は一切反省をしなかった。

 これに愛想をつかした重勝は「浪花亭もこれまでだ」と落胆し、一門を引き連れて浪花亭を離反してしまった。ちなみに駒吉は他にもトラブルを起こし、後年駒吉の名前を返上するに至った。

 父の主君が「木村織部匠重勝」と名乗っていた所から、「木村重勝」と改名。重松も重友も重正も皆改名をした。

 以来、重勝の門流は皆、「木村」と称するようになった。重松が売れ、重友が売れるようになると、木村派の名声は富に上り、さらには重松の門下からは松太郎、重行、重若丸。重友門下から友衛、友忠、重春、友春。重正門下から重浦が出るにあたり、遂には浪曲界の覇権を握った。

 一時期は「アンパンと浪花節は木村に限る」と洒落があったくらいである。

 重勝は弟子に恵まれたといえよう。

 弟子たちが売れるにしたがって、自身は活躍の場を狭めていき、1930年代に入ると引退同然になった。一応指導役のような事はしていたようであるが、舞台には上がらなくなったという。

 1932年3月8~10日、浅草音羽座で「木村重勝引退記念公演」を実施。重松を筆頭に重友、重正、重行、重浦、松太郎、友忠が列席。一門総出で師匠を見送った。

 1934年9月、一番弟子の重松に「重勝」を禅譲し、完全引退となった。晩年は孫弟子たちの成長を楽しみにしていたという。

 一方で、当時としては珍しく長命だった事もあってか、重正、重友、重松に皆先立たれるという悲劇にも見舞われている。

 1938年に重松、1939年に重友に死なれた後は相当落胆をしたらしく、浪曲界とも疎遠になってしまったと聞く。

 当時としては相当の長寿を保ち、苦しい太平洋戦争の敗戦を知った直後、78歳で亡くなった。

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