二代目駒吉を継いだが――浪花亭綱吉

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二代目駒吉を継いだが――浪花亭綱吉

 人 物

浪花亭なにわてい 綱吉つなきち
 ・本 名 内海 伊之助
 ・生没年 1865年4月3日~1920年代?
 ・出身地 

 来 歴

 浪花亭綱吉は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浪花亭駒吉の芸養子となり、二代目駒吉を許されたが不祥事が多く、結局二代目を取り上げられてしまった。浪曲そのものはうまかったらしい。

 前歴は不明。浪花亭駒吉に入門し、「浪花亭綱吉」と名乗った。

 師匠譲りの関東節に、三曲や尺八に合せて浪曲を語る独特の芸で人気を集めた。節は兎に角うまかったらしく、駒吉からも一目を置かれていた。

 1897年、駒吉の実子で後継者と誉れ高かった浪花亭〆太が死去。駒吉は綱吉を芸養子として迎え入れたという。

 1906年1月、浪花亭駒吉死去。一門で会合を開き、審議の結果、綱吉に白羽の矢が立った。

 1906年夏には既に「二代目駒吉」として舞台に上っている。この辺りの事は、『新仏教』(1906年9月号)の批評に詳しい。

▲浪花亭二代目駒吉君 今は斯界の元老株だが、まだ綱吉と言つて、初代駒吉君の切前を語つてゐた頃から、聲の良いのと、節のうまいので、人気が頗る多かツた。
そして、駒吉君の養子となり、此頃遂に二代目駒吉となつたのである。侠客傳でもやつたら、素敵なものだが、一休諸国物語とか、黄門記とか畏怖物をやると、気の毒で、聞いて居られないやうな、まづい言葉が出る。早い話が、一休和尚は、天台の坊さんだか、禅宗の坊さんだか、日蓮だか、真宗だかゞわからなくなつて仕舞ふなど、決して珍しくない。それのみでない、大看板ともあるものが、尺八に合せて、浪花節を語るなどゝいふ邪道に堕して、以てコケを威して、得々として居るなど、甚だ苦々しいことである。(此頃はもうやめたやうだ)

 しかし、二代目になった後も鳴物入りの邪道な浪曲を演じたり、自身の客の入りをよく見せるために入場料を下げまくる行為などを連発した事から門弟各位の顰蹙を買い、二年足らずで名前を取り上げられてしまった。

 1908年7月、大ろじ亭にて「浪花亭芦幸」と改名。事実上、名前を取り上げられた形となった。

 しかし、地方巡業などに出ると「浪花亭駒吉」を名乗り続けていたようで、このこともまたトラブルの種だったらしい。

 浪花亭重勝が、一門を連れて浪花亭を離脱したのもこの綱吉のせいであるという。曰く、

 木村重友が巡業に出た際、この綱吉と鉢合わせした。二組は競い合ったが重友の方に客が入った。これを良しとしない綱吉は値段やお土産までつけて客を呼ぼうとしていた。これに怒った重友は帰京するや、重勝に一部始終を相談した。「浪花亭を汚すつもりか」と重勝は綱吉に直談判したが、綱吉は取り合わず、「浪花亭ももうこれ限りだ」と重勝は一門を率いて浪花亭を離脱してしまった。

 という。こうした騒動や悶着は当然、他の関係者からも白眼視される結果となった。芸はうまかったために干されはしなかったが、遂に一門を率いる名人になり損ねたのはこうしたトラブルメーカーにあったという。

 結局、芦幸の名も長続きせず、1911年、「浪花亭駒幸」と改名。これが最後の芸名となった。 

 1915年の芸人名簿には名前が登録されている。

 1919年頃まで、同門の峰吉などと共に寄席に出ている姿が確認できるが、関東震災前に没した模様である。

『川柳きやり』(一九三〇年五月号)の「浪花節昔ばなし」によると、「駒幸は晩年ます/\不遇で浅草公園の俗にカイチヤン館と云つた小屋の木戸番などをして居る内遂に世を去つた」と、不遇な最期が記されている。しっかりとした芸を持ちながら、人格に難があったが故に遂に零落してしまったのは惜しい。

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