柳家小半治の父親?鼈甲斎虎好

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柳家小半治の父親?鼈甲斎虎好

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 虎好とらよし
 ・本 名 松本 丑太郎
 ・生没年 1872年7月5日~?
 ・出身地 千葉県

 来 歴

 鼈甲斎虎好は浪花節黎明期から大正期まで活躍した浪曲師。初代虎丸の門弟で、早くから売り出した。落語の柳家小半治の父親としても知られるが血縁関係はなかったらしい。後年、桃中軒一門に入り「桃中軒鶴右衛門」と改名した。

 前歴は『房総人名辞書』に詳しい。

鼈甲斎虎好 本名松本丑太郎、明治五年静岡県小笠郡加茂村に生る、幼にして声曲を好み、十九歳の時初代鼈甲斎虎丸の弟子虎好の門に入り修業四年にして真打となり、師の没後襲名して鼈甲斎虎好と称し浪花亭組合の世話役たり、四十二年一月より千葉町席亭長洲亭を譲り受け、亭名を小川亭と改めて之れを経営す

 1894年に師匠と死に別れ、兄弟子の二代目虎丸と共に行動をするようになった。師匠が没した時には既に一枚看板で活動していた様子が確認できる。

 師匠が残した鼈甲斎のブランドを頼りに、鼈甲斎一門と結束を固め、各寄席に出演した。1890年代後半には既に掛け持ちをするほどの人気があった。

 芸風には謎が残るが、師匠譲りの『安中草三』の他、『木村又蔵』『牧野彌兵衛』『水戸黄門』『毛谷村六助』といった物も読んだらしい。節は名古屋節だったらしく、関東浪曲界では異色の存在ではあった。

 師匠の没後の前後で、数年間、「浪花亭道子」こと「松本みね」と結婚し、所帯を持っていた事がある。この道子は戸川花助門下の浪曲三味線弾きで、美人で腕達者という大変な人物であった。

 1896年6月、息子の藤太郎が誕生。ただ、出産前後で道子が家を飛び出して、木村重友と再婚してしまったため、息子とは殆ど縁を持つことはなかった。

 この藤太郎は後年「柳家小半治」と名乗り、寄席の音曲師として活躍した。立川談志が愛した人物として知られている。

 小半治自体はこの虎好を父親だと認知していたようで、「あれが実の父親だ」と芸能界でも口にしていたという。ただ、虎好とはウマが合わず、「実父はすきではない」と零したこともある――と『寄席紳士録』の中で触れられている。

 小説なのでどこまで本当なのかわからないが、小半治の母と関係を持っていたのは事実である。

 そのくせ、生まれて来た小半治は、虎好の同僚・浪花亭峰吉にそっくりであった。当時、妻の道子は虎好の他にも、峰吉、木村重友とも肉体関係を持っていたそうであり、安藤鶴夫は「本当は峰吉の子ではないのか」と推測している。

 こうした事から「小半治の本当の父親は浪花亭峰吉」「浪花亭峰吉と小半治は義理の親子」(実際、小半治は浪花亭峰吉の本籍に一時期入れられており、本名は田代藤太郎といった)と書かれる事がある。

 虎好からすれば浪花亭峰吉からトンデモナイ托卵をされたという事になる。道子と別れたのもそうした男性関係のひどさに辟易していたのではないか。

 1909年11月、三芳屋書店より「関東関西浪花節大集会」を発売。東家楽遊、玉川勝太郎、吉川清之助と並んで関東の大御所として君臨している。

 1912年4月、日吉堂より『浪花節十八番』を発売。観音丹次を口演している。

 1913年、山口屋書店より『浪花節究声会』を発売。早川辰燕、末廣亭清風、浪花亭峰吉などと共に講演が収録されている。

 その後も一枚看板で活躍を続けてきたが、大正に改元する前後で鼈甲斎の名前を返上し、「桃中軒鶴右衛門」と改名。雲右衛門の一門に入った。移籍の理由は不明。

 1915年秋、吉川小虎丸と共に渡米し、ハワイを巡業。1916年正月をハワイで迎えている。

 『ハワイ報知』(1915年11月8日号)に「〇鶴右衛門語振 一風変った名古屋節」という芸評が出ている。

 桃中軒鶴右エ門、吉川二代目小虎丸の浪花節は一昨土曜日を以つて初日とし旭劇場に於て興行中であるが桃中軒鶴右エ門は真打丈けあつて何所となく重味がある、節は純然たる名古屋節にて敬服する譯には行かぬが去りとて布哇では一風変つて居るから面白い、白詞は実に立派なもので三戸公の言動を遺憾なく白詞の上に現はす所は偉らい

 とある。名古屋節だった事がこれでわかる。

 その後、桃中軒為右衛門などと手を組んで、1916年11月まで興行を打っていた。1年近くハワイを巡業していたのだから立派なものである。

 その後も高座に出ていたようであるが、関東大震災前後から消息が分からなくなる。夭折した模様か?

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