むにゃむにゃ節の文芸浪曲・吉川小虎丸

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むにゃむにゃ節の文芸浪曲・吉川小虎丸

 人 物

 吉川よしかわ 小虎丸ことらまる
 ・本 名 吉田 久太郎
 ・生没年 1874年8月~1920年代?
 ・出身地 ??

 来 歴

 吉川小虎丸は浪花節黎明期から大正時代にかけて活躍した浪曲師。「万歳節」「上方のからくり」とあだ名されるほど、飄々として何とも言えない不思議な浪花節を得意としたという。

 生年と本名は『芸人名簿』より割り出した。師匠は名古屋の浮かれ節・吉川辰丸らしいが経歴らしい経歴は不明。

 修行時代は1900年頃、東京に上り、浪花節組合に所属。

 師匠譲りの『先代萩』『寛政相撲』『吉原百人斬り』など真面目な作品を読んだというが、本領は『不如帰』『魔風恋風』『己が罪』『佐賀の夜嵐(後藤新平)』などといった明治物・文芸物にあった。

 当時は未だ文芸物は殆どなく、著作権などないに等しい時代だけあって、小虎丸は人気小説を次々と浪花節に仕立て、人気を博した。

 その独特の節は『万歳節』『むにゃむにゃ節』と揶揄され、好事家からネタにされた。正岡容は『日本浪曲史』の中で、

吉川小虎丸
小虎丸は大正年代まで活躍するが、早間の名古屋節で昭和二十九年旧盆にNHKから「浪花節燈籠」を、私と春日清鶴君とで対談したとき同君が節真似を聴かせたが、とんと上方風のからくりに似ている。
「節にかかっては舌が縺れるようで、言葉が薩張り分らず。舌が長いのか故意にするのか」と当時の月評家夏楓軒は評している。蓬城と改名後の大正二年九月号の雑誌「うきよ」の秋菊の評も同様である。 同じ雑誌の翌三年八月号「浪花節総括り」では「奇抜な節廻しは「万歳節」「ムニャムニャ節」などの異名を受けているが(中略) 会話の得意なのが身上である』云々。

 とし、真面目な演題を演じていたのを「一奇」とまで書いている。

 一方で啖呵は実に素晴らしかったそうで、『新仏教』(1906年9月号)の「浪花節論」の中で、

▲吉川小虎丸君、この君が、捲舌でタンカを切る時は、一種の凄味があつて、その上に、節から言葉へ移るところ、言葉から節へ移るところ、節と言葉、言葉と節とが相錯綜するところに、捨て難き妙味がある。しかし、節になると、あの色の黒い顔を、更に焼き焦したやうな色にして、目をムイたり、口をひン曲げたり、歯を出したりして、そして時々、エンウ/\/\といふやうな、うなりをつづけるのは、聊か恐縮せざるを得ない。

 と評され、『天鼓』(1906年2月号)の中でも、

▲名古屋小虎丸 其節廻しに難はあれども読み口は案外確か也、明治ものを演じては誰に押されぬだけの技倆を有せり。

 と、節廻しに問題はあっても浪花節は立派なものと書かれている。

 1912年、魚住書店より『初代吉川小虎丸講演 革新浪花節人情揃』を発表。「不如帰」「金色夜叉」「己が罪」「魔風恋風」などを口演しているのだから、相当最先端である。

 1912年6月、国華堂より「吉田奈良丸大一座」を発売。「吉原百人斬り」の速記が出ている。

 1912年9月1日より、日本橋豊久亭に出演し、「吉川小虎丸改め吉川逢城」襲名披露を決行。小虎丸の名前は弟子に譲渡した。

 その後は長老として1920年代前半まで出ていたようであるが、震災前後に消息が途絶える。

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