吉田大和之丞の孫娘・吉田奈良丸嬢

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吉田大和之丞の孫娘・吉田奈良丸嬢

 人 物

 吉田よしだ 奈良丸嬢ならまるじょう
 ・本 名 広橋 美代子
 ・生没年 1932年7月18日~2005年以降?
 ・出身地 兵庫県 住吉村

 来 歴

 吉田奈良丸嬢は戦前戦後活躍した女流浪曲師。吉田一門宗家の吉田大和之丞の孫娘として生まれ、お嬢様浪曲師として注目されたが、海外巡業の先で恋をして、海外移住。そのまま浪曲界を離れてしまった。

 経歴は『月刊浪曲』(1990年7月号)に掲載された春野百合子の聞書きに詳しい――というよりこの紹介でほとんど紹介する事がなくなる。

 メンバーは吉田奈良丸嬢。この方は本宅の兄の娘。私には姪にあたります。当時、十九歳。義士伝を読み、スラリとしたなかなかの美人。今ではその時の旅が縁でウィルソン号のパーサーと結婚、サンフランシスコに住んでいます。

 本宅の兄とは吉田大和之丞家の家督を継いだ「広橋健治郎」の事。この人は芸人にならず興行師として一生を終えた。

 ただ、この健治郎は吉田大和之丞の実子ではなく、大和之丞の妹・吉田元女との子供である。いわゆる、甥が大和之丞に見込まれて養子にもらわれたという事。

 これは当時の『人事興信録8版』にも書いてあり――

広橋広吉 養子 健治郎 明治四三、一一生。マラ、広橋モト男

 その健治郎の娘なので、戸籍上は吉田大和之丞の孫娘であるが血縁上は大姪にあたる。もっとも血縁関係的には近しい間柄であったのは事実である。

 吉田大和之丞は艶聞家として知られ、認知した子供だけでも4人もいる。文子(健治郎の妹)、春野百合子、春野百合若(二人は初代春野百合子との間の子供)、広橋糸也(最後の妻・芳子との子供)。滅茶苦茶である。

 また、関係者に見せてもらった戸籍によると「健治郎」と「白石久」の長女として「昭和七年七月拾八日生 長女・広橋美代子」とある。

 出生地は「兵庫県住吉村」。大正から昭和にかけて、多くの財閥関係者や文化人が邸宅を築き、「日本一裕福な村」として知られていた。

 1940年に両親が正式に結婚した事もあり、広橋家に入籍。嫡男の長女とだけあって、吉田本家で溺愛されて育った(春野百合子・百合若たちは、別の場所に住んでいた)。

 百合子が「本宅の兄の娘」といっているのはそうした事情がある。

 二代目百合子は「父・大和之丞、母・初代百合子のサラブレッド」と言われるが、実際は大和之丞と別居していた。初代百合子は大和之丞を愛しながらも、大和之丞の奔放な性生活に苛立ちを持っていたのだという。

『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」によると、

〈芸歴〉吉田大和之丞の孫。昭和十八年十二月京都先斗町歌舞練場で初舞台。一時学業のため舞台を去り、二十四年八月、吉田奈良丸嬢として京都南座で披露公演。

 との事。祖父の大和之丞が手取り足取り教えたそうである。そのため、一門系図では大和之丞門下となっている。

 戦後の1950年に出された番付では一枚看板で「名流・吉田奈良丸嬢」として紹介されている。祖父の威光もあったが、顔も良く声も良いため非常にもてはやされたという。

 十八番は祖父譲りの「義士伝」のほか、「雲の墓標」などといった新作も読んだ。如何にも女性らしい、たおやかな芸の持主であったと伝えられる。

 1952年春から夏にかけて叔母の春野百合子や吉田駒千代などと共に米国本土・ハワイ巡業。『ハワイタイムス』(1952年4月2日号)に、

羅府、中島興行部の招聘を受けて、米大陸巡業に赴く”振り袖浪曲団”の美人一行が寄港した。線上には中島興行ハワイ支社長柴田和市氏が出迎えてゐた この”振袖浪曲団”は吉田奈良丸の系統で団長格春野百合子(二代目の娘)吉田奈良丸嬢(十九歳)吉田駒千代、日吉川節子、藤原良子の新進女流浪曲師、一ケ月後ハワイに来り格闘を巡演する予定である。

 とあり、当時の新聞に取り上げられている様子が確認できる。

 帰国後の1953年の番付では、春野百合子と共に「名花」として別枠扱い。

 1954年度の番付でも「名花」として春野百合子とともに並んでいる。

 帰国後も女流浪曲の花形として活躍を続けていたが、米国巡業中に知り合った男性と恋愛関係に発展し、国際結婚を考える仲となる。ゴールインまで色々あったと聞くが――

 1955年、日系人のタカシ・久保田と結婚。この人は上にある通り、客船のパーサーであった。

 1957年9月14日、毎日放送の浪曲研究会に出演し、「白虎隊の母」を口演している。この頃、新作を結構口演していた模様で、第三の女流新人と強く目されていた。

 1958年9月27日、浪曲研究会に2度目の出演し、「遥かなる雲の墓標」を口演。

 この公演を最後に浪曲界を引退し、夫と共に、サンフランシスコへ移住した。その後は市井の女性として幸せに暮らしていたようである。

 2005年、山梨県に新しい籍を作っているのが最後の消息か。

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