怪談浪曲の長老・近江源氏丸

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怪談浪曲の長老・近江源氏丸

 人 物

 近江おうみ 源氏丸げんじまる
 ・本 名 山下 平四郎
 ・生没年 1905年6月16日~1986年頃?
 ・出身地 兵庫県 波賀町

 来 歴

 近江源氏丸は戦前戦後活躍した浪曲師。元々はコックという変わり種。広沢一派の傍流の出身であったが、広沢虎吉に目をかけられ、彼の娘婿となった。虎吉譲りの芝居仕立ての浪曲とケレンを得意とした。

 長生きした事もあって、『東西浪曲大名鑑』に記載がある。それと『日本演芸家名鑑』にも記載がある。

 出身は兵庫県波賀町。1919年、西谷村斉木小学校を卒業後、神戸に出て洋食屋へ就職。コック見習いとなる。

 それから10年ばかり神戸でコックをしていたというが、元来浪曲が好きだった関係もあり、広沢篁州へ入門。時に1927年の事。

『上方芸能』をみると「昭和2年5月、入門。5月、大阪国光席で初舞台」とある。

 一方、『日本演芸家名鑑』などでは、1930年入門とあり、微妙な齟齬がある。「東西浪界写真名鑑」でも「24歳」と紹介されており、微妙なところ。

 個人的には1930年説を押したい。

 入門からすぐに岐阜豊富座で初舞台を踏む。しばらくの間、師匠の巡業に参加をしていたが、この頃に四代目広沢虎吉の娘と恋愛関係に発展し、結婚。広沢虎吉の娘婿となった。

 これを機に広沢虎吉から目をかけられるようになり、事実上の虎吉門下となった。

 1934年、「広沢源氏丸」として看板披露。虎吉の庇護を得て、一枚看板として売り出すようになる。

 虎吉が芝居浪曲という、大掛かりな芝居ネタや怪談浪曲を得意としていた関係もあって、その補助として随行。多くの物を学び取った。時には虎吉の相手役として舞台に出る事もあり、関係者を唸らせた。

 遅いデビューでありながら、非常に芝居っ気があったそうで、虎吉が道楽でやっていた浪曲芝居でもたびたびメインキャストに抜擢された。「瞼の母」を演じた際、虎吉の番場忠太郎を相手に、水熊の女将を演じ、虎吉以上の喝采を得たともいう。

 主に「左甚五郎」「水戸黄門」「淀五郎」「東雲座」といったケレンや「亀甲組」といった古典を読んだが、時には師匠譲りの「戸田の渡し」「妲己のお百」などの怪談を切々と読み、実力を発揮した。

 1935年の番付では、有望青年としてランクイン。

 1938年の番付では「新進」として日吉川斎兵衛(太刀原幸門)、梅中軒鳳童(天龍三郎)と共にランクイン。

 1939年の番付では一段目前頭24枚目(すぐ上には岡本玉治や広沢瓢右衛門がいるのでこれはこれですごい)となる。

 1941年の番付では「新鋭」としてランクイン。

  1942年12月24・25日、京都南座の吉例浪曲大会に出演。新人推薦として筑波武蔵と共に出演を許された。他に大幹部の梅中軒鶯童、富士月子、吉田奈良丸、天光軒満月、京山幸枝等が出演。

  戦時中思う所あって「近江源氏丸」と改名。貴重な中堅・古老として活躍するようになる。なお、一時期「近江源氏」と名乗ったが、すぐに「源氏丸」と戻している。

 1943年の番付では「新鋭」として梅の家鶯、八洲天舟などと共にランクイン。

 1943年7月15日、NHK大阪に出演し、「漂流二代」を放送。

 戦後、再興した浪曲親友協会の評議員に就任。名実ともに幹部となった。

 1950年の番付では「精鋭」としてランクイン。

 1951年2月、師匠で舅の広沢虎吉死去。以来、関西広沢派の貴重なご意見番となる。浪曲大会の常連にもなり、枯淡のけれんや怪談でよくウケていた。

 1954年の番付では、長谷川梅雄と並んで「小結」。

 1955年の番付では、五代目中川伊勢吉と共に「小結」。

 1957年1月26日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演し、「甚五郎・天王寺の猫」を口演している。

 1961年の番付では「芸豪」として別格扱い。

 1964年の番付では、天龍軒大洲と共に「芸豪」。

 1976年の番付でも、「芸豪」。

 1970年代後半、老齢のために一時期休演が続いていたが、1980年代に復活。80過ぎても舞台に上がっていた。

 1982年5月3日、「永年にわたる郷土芸能文化浪曲の普及発展に寄与し、社会教育に貢献した功績」で「大阪府社会教育功労賞」が贈られた。 

 1985年発行の「日本演芸家名鑑」に掲載されていたが、1987年の演芸家名簿から名前が消えるので、亡くなったか老衰で引退した模様か。

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