琴入り浪曲の大蔵雲

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琴入り浪曲の大蔵雲

 人 物

 大蔵おおくら くも
 ・本 名 森 茂樹
 ・生没年 1912年1月2日~??
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 大蔵雲は戦前戦後活躍した浪曲師。浪花大掾門下からスタートして独立で腕を磨き、戦前から琴入り浪曲で人気を博した。

 生年と本名は『文化人名録8版』より割り出した。当時としては珍しく高等小学校を卒業した模様。また、『上方芸能88号』(1985年6月号)の「浪曲研究会公演記録」に芸歴が紹介されている。

 昭和三年、浪花大掾の門に入る。十年から琴伴奏。

 とある。16歳で入門したとみるべきか。

 浪花大掾が地方で人気があった浪曲師だった関係から、早くから旅巡業に連れまわされた。初舞台が久留米市の恵比寿座なのはそうした所からきているのだろう。

 年季明け後、「大蔵雲」と改名。師匠同様、地方巡業で人気を集めた。

 前衛的な所があったのか、1935年には琴入り浪曲を演じ、人気を集めるようになった。

 1938年の番付には、東方の「新進気鋭」。

 1941年の番付には東方の、前頭二段目15枚目。

 1953年の番付には、西方の前頭13枚目。

 1954年の番付には、西方の前頭6枚目。

 1954年4月30日、浪曲会館のこけら落とし公演に出演。

 1955年の番付には、西方の前頭6枚目。何とも中途半端といえば中途半端である。芸はうまかったが、地方巡業が多かったのも欠点だったのだろう。

 1957年5月27日、毎日放送より「謎の花嫁」を放送。

 1973年、漫才師の東五九童が「西成区のてんのじ村を残そう」と運動を起こし、「てんのじ村保存会」が結成された。その際に雲も委員として出席し、松鶴家団之助や浮世亭歌楽と共にてんのじ村と関係のある芸人として名乗りを上げた。

 1970年代まで活躍が確認できるが、それ以降は引退したか、没したか。

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