弟の足を切った吉田久丸(二代目)

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弟の足を切った吉田久丸(二代目)

 人 物

 吉田よしだ 久丸ひさまる(二代目)
 ・本 名 井出 福松
 ・生没年 1883年~1940年
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 二代目吉田久丸は戦前活躍した浪曲師。初代吉田久丸を父に、天才と謳われた吉田久菊を弟に持つサラブレッドであったが、関東大震災で弟を失ったショックで元気を失い、当人は中幹部として終わってしまった。

 経歴等は判然としない所が多い。父が吉田久丸である事、その嫡男として早くから浪曲を仕込まれた以外はどうも判然としない。

 本名は『国勢調査大阪市報告書 昭和5年』より、年齢は『富士1932年新年号』より(現49歳という記載より逆算)割り出した。

 幼くしてデビューをし、「久春」と名乗る。

 弟の知男を高等学校に行かせるため、父共々頑張っていたが、弟は兄の一座に入って浪曲師になってしまった。『浪花節名鑑』の吉田久菊の項目を見ると、

氏は十八才の秋十月二十六日迄中学登校突然にして兄二世久丸一行中の者病気欠席為に氏は補助として淡路洲本弁天座で初高座をなせしが、大好評を博せし為め退学浪界に入り得意の読物は幕末志士傳、御殿山焼打、高杉晋作、忍ぶ面影、快傑傳

 弟の天才ぶりに、兄の久丸は割を食う羽目になったが、兄としてはよく出来た人で弟を恨む事なく、むしろ引き立て役に徹し、弟久菊の後押しを行った。

 1911年9月には一枚看板で東京に呼ばれ、当時としては名門の寄席であった牛込高等演芸館に出演。『都新聞』(9月28日号)によると、

初上り吉田久菊
◇同人は大阪吉田久丸の倅として、幼少より久丸所有の吉川席に奈良丸、小圓、若丸など出席し居る身振り口真似を覚え、本年十九才の生年鳴れど、大看板として九州四国中国を巡業し、今回上京して一日午後五時より牛込高等演芸館に現る。

 その後も弟に従い、弟の前読みやマネージメントなどを行った。よくも悪くも芸より実務の方に才能があったようである。弟の久菊もそんな兄を頼りにしており、兄弟仲良く売り出す事となった。

 久菊の名声は日に日に上昇し、大正初期には既に一角の勢力を誇っていた。兄の久丸は久菊一座をよく統制し、久菊の売り出しに尽力を尽くしていた。

 1920年1月30日、大阪新世界花月亭において「二代目久丸襲名披露」を実施。岡本鶴治、吉田奈良丸、京山小円、京山若丸、京山幸玉、京山呑風、岡本梅寿軒等が出演。

 1923年夏、天光軒満月、吉川島国、吉川小龍、寿々木米若などと共に手を組んで横浜寿亭で「若手競演会」を決行。弟共々、横濱に乗込む。

 9月1日、天光軒満月が舞台に上がろうという時に凄まじい揺れが襲った。関東大震災である。

 寿亭は激震に耐え切れずに倒壊。満月、小龍は小屋から投げ出され重傷を負い、米若もけがを負った。

 久丸はギリギリのところで脱出し、一命をとりとめたが楽屋に残っていた久菊が生き埋めとなった。

 その悲惨な状況は、『大阪朝日新聞』(1923年9月9日号)に詳しく掲載されている。  

弟の足を鋸で断る 浪花節吉田久菊の惨話
遭難帰阪した大阪の落語家桂小文治は惨況を語る「落語家は針ほどもないことを棒ほどに申上げるのが商売だが今度のことばかりは如何に身振手振をしても迚も申上げられません、倒壊した神田の家を逃げ出して上野公園に避難したが途中女房を脊負った男の後から血がタラタラ流れている、よく見ると十歳位の女の子が坐蒲団に産れたばかりの嬰児を包んで附いてゆく、逃げる途中で出産したのだ、茲に又最も悲惨な話は浪花節語り吉田久丸兄弟です、家屋崩潰と一緒に弟久菊が梁の下敷となり右足を挟まれてどうすることも出来ません、兄は近所に飛んで行って鋸を借て来てゴリゴリ梁を切りはじめた時、早くも一面の火となったので両人は狂気のようになり弟は俺の足を切れるかという、それでは自分で切るから鋸を渡せという、そこで両人は泣き崩れたが襲い来る猛火に今はこれまでと兄は弟の右股を鋸引きにして半まで斬ったが弟久菊は出血のため遂に死んだ、兄は附近の交番へ行ったが巡査がいないので無断で筆墨を借りて弟の姓名住所を書いて死体の懐中に納め泣く泣く死体に別れを告げ上野に走って全きを伝ました、全く想像以上の惨話です」

 生きるためとはいえ、弟の足を切った久丸の無念、哀しみ、複雑な感情は幾許なるものだっただろうか。

 結局、久菊は助からず出血死を遂げ、久丸は泣く泣く関東を後にして大阪へと命からがら舞い戻った。

 久菊という大きな柱を失った久丸は自身の売り出しにそこまで執着することなく、関西にとどまり、幹部として活躍する道を選んだ。この保守的な体制が、よくも悪くも久丸の名を残さない要因となったのではないだろうか。

 一方、久丸からしてみれば、関東へ下手に乗込もうものなら、震災のトラウマや不安が押し寄せてままならない状態にあったのではないか。そう考えると久丸は「生き残ってしまったが故の罪、エゴ」を抱えたことになる。

 帰阪後は古巣の浪曲親友派の評議員に就任。幹部として一応の権力は持った。

 また、大阪と名古屋の寄席で活躍を続けていた事もあってか、放送との縁は結構深かったようである。

 1928年3月8~11日、JOBKに出演し、「成功美談」「海軍の母」「陣中の夢」を放送。

 1928年8月31日、JOBKに出演し、「将軍と太平さん」を放送。

 1929年5月31日、JOBKに出演し、「孝子納豆売り」を放送。

 1930年代に入ると古老として扱われるようになったと見えて、そこまでの権威や人気もなくなった。当人も病気勝ちとなり、表舞台と距離を置くようになったという。

 梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』によると「1940年没」との由。

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