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東家宗家になった秋津島雄鳳
人 物
秋津洲 雄鳳
・本 名 棚谷 兵輔
・生没年 1910年~1969年3月18日
・出身地 茨城県
来 歴
秋津洲雄鳳は戦前戦後活躍した浪曲師。天中軒如雲月門下からスタートし、戦争浪曲で名声を上げ、戦後東家一門の宗家名である「東家三楽」を襲名した。
芝清之『浪曲人物史』によると、出身は茨城。学校卒業後、家業の農家を手伝っていたが、幼い頃から浪曲が大好きで上京。
21歳の時に天中軒如雲月に入門し、「天中軒竜月」と名乗った。
1934年、師匠の如雲月が「二代目雲月」を襲名するも、初代の関係者に無断で襲名披露を行ったために問題となった。
如雲月は自身が初代から指名されたと主張し争ったが、一門の総スカンを受ける事となり、泥沼に陥った。最終的に東家楽燕が出動し、「天中軒雲月を返上する代わりに東家三楽を襲名する」という形でけりをつけた。
1934年8月、明治座で「東家三楽襲名披露」が実施されたのを機に、竜月も天中軒の屋号を捨て「秋津洲雄鳳」と改名した。
天中軒系の『忠臣蔵』『天野屋利兵衛』といった古典の他に、師匠三楽に習ってか戦争浪曲を得意としたという。
1935年7月、タイヘイから『輝く陸戦隊』『誉れの信号兵曹』という軍事浪曲を発表している。
以来、中堅として活躍。芸名が「秋津洲雄鳳」という堅苦しいものゆえか「講談師ですか」などと勘違いされる事もあったという。
1941年の浪曲番付には「別格横綱」として登録されている。
1944年、師匠の三楽が死去。
1948年、師匠の名前を継承し「東家三楽」を襲名。敗戦直後で物資がない時分にもかかわらず、なかなか派手に襲名披露ができたという。
しかし、三楽を継いだわりにはパッとせず、更に浪曲不況にも巻き込まれ、名跡の重さに苦しんだとも聞く。
1958年に引退。その後は花屋を経営して余生を送り、時折余興に頼まれては昔懐かしい浪曲を演じていたという。
1969年、病に倒れ、59歳の若さで死去。
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