悲劇的な死・京山円千代

浪曲を彩った人々

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

悲劇的な死・京山円千代

 人 物

 京山きょうやま 円千代えんちよ
 ・本 名 大倉 今子
 ・生没年 1907年9月~1939年1月5日?
 ・出身地 大阪?

 来 歴

 京山円千代は戦前活躍した女流浪曲師。京山円吉の引き立てで売出し、関西女流として一流を築いたが、1939年1月に長崎で発生した鬼池丸沈没事件に巻き込まれ、東天紅などと共に水死という悲劇的な死を遂げた。

 経歴は『東西浪界写真名鑑』に出ていた。

 本  名 大倉今子
 生年月日 明治三十五年九月
 師  匠 京山円吉(井上政次郎氏ノ引立)
芸(十八番)乃木将軍、南部坂
 趣  味 散歩、
初 舞 台 二十三才 今治劇場

 師匠は京山円吉。円吉はプロデューサーとしてもすぐれていた事もあってか、早くからこの弟子を売り出したようである。初舞台は数え年ではないだろうか。

 1929年、師匠の円吉や京山一門の斡旋で大阪の大劇場でお披露目を実施。これを機に人気浪曲師の仲間入りを果たした。

 師匠譲りの『義士伝』を中心に、『乃木将軍』『源平』などを優美な節まわしと愛嬌で語ったという。また美声の持ち主だった事も幸いして、一席をつとめ終わった後、「都々逸」「鴨緑江節」「安来節」などを唄って大喜利とするのも人気の秘訣だった。

 1931年6月、タイヘイより『孝子迷の印籠』を発売。

 1931年7月、ニットーレコードより『須磨の浦』を発売。

 1934年の番付では吉田奈良千代、浪花家筆子、巴うの子に続いて小結。

 1935年の番付では、二代目天中軒雲月に続いて「大関」に昇進。

 1937年の番付では大和式部、吉田小奈良に次いで「小結」。

 1938年の番付では「名花」。

 1939年1月、鼈甲斎虎丸(これは偽物。三代目の門下生らしい)の一座に入り、九州一円を巡業する計画となっていた。一座には盲目の名人・東天紅、村田英雄の実母・矢野ツタなどが在籍しており、偽物ながらも一応の人材は揃っていた(ちなみに三代目は1938年に死に、四代目は1939年夏に襲名する)。

 1月、長崎の口之津劇場で新春公演を行い、天草へ行く計画であったが、当日は大荒れであった。その中で船頭と虎丸一行が揉め、「船を出してくれ」「出せない」といううちに「一度乗せるだけ乗せてこの大時化を味わえばすぐ諦めるだろう」と船頭は出航した。

 その10分後に船は転覆し、船員たちは海の中に消えて行った。42人のうち、4人は自力で岸辺までたどり着いたり、残骸にしがみついて救護されたが、残りの38人は溺死を遂げた。

 この事件はショッキングなものだったらしく、『朝日年鑑1940年』の中にも――

△十四年一月――五日五通瀬沖で鬼池丸転覆鼈甲斎虎丸、京山円千代ら溺死

 とある。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました