雲右衛門の弟・桃中軒風右衛門(初代)

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雲右衛門の弟・桃中軒風右衛門(初代)

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 風右衛門かぜえもん
 ・本 名 米山 竹次郎(岡本峰吉?)
 ・生没年 1876年3月2日?~1915年4月8日
 ・出身地 群馬県?

 来 歴

 桃中軒風右衛門は、浪曲界の風雲児、桃中軒雲右衛門の実弟。自らも兄を慕って浪曲師になり、風右衛門と名乗ったが、兄よりは大成しなかった。

 本名は『芸人名簿』より割り出したが、兄同様に経歴を詐称していたり、戸籍に謎があるため、「?」としておく。雲右衛門以上に謎かもしれない。

 そもそも出生年と本名から謎で、「雲右衛門の弟の岡本峰吉は、風右衛門と名乗った」「雲右衛門の弟で1915年に40歳に亡くなっている」などという矛盾をぶっ放す始末である。

 井出康雄がまとめた「雲右衛門資料」によると、戸籍上では「1876年3月2日」が生年であるという。これなら1915年に数えで40歳に亡くなったという計算が成り立つ。

 本名がなぜ「峰吉」から「米山竹次郎」(武治郎と書くのもある)になったのはよく判らない。多分養子にでも入ったのではないだろうか。

 出生地は、どうも父・繁吉の巡業先であったようだが、本籍は高崎市にあったらしい。風右衛門もまた、両親や兄たちと共に群馬で幼少期を過ごしたという。

 妹弟に、長吉、松五郎、フクがおり、松五郎は前橋の木村広吉なる父母の恩人の家に養子へ入ったという。

 幼い頃から母と兄から手ほどきを受けて、舞台に出るようになる。元々は「吉川小繁治」と名乗ったらしい(芝清之の調査より)。

 1896年10月、兄が「吉川繁吉」を襲名したため、自身は兄の「小繁」を襲名する。

 1900年10月16日、兄が「桃中軒雲右衛門」と改名したため、自身は「二代目繁吉」を襲名。しばらくの間、兄と行動を共にし、前読みを勤めた。

 後年、兄の駆け落ちには同行せず、東京で地道な修行を続けていたという。主に早川辰燕の「神田派」に属していたらしい。

 1902年10月1日、本所新花岩亭で「桃中軒風右衛門」と改名する。しかし、兄の不行跡や浪花節界の対立などで大看板になり切れず、端席や地方巡業を余儀なくされた。

 しかし、1904年あたりから兄の名声が高まり、自身も関東派の浪花節として売り出すようになった。

 ただ、兄よりも覇気に欠けたそうで、多くのゴシップや伝説を残さなかった。良くも悪くも良識的であったというべきだろうか。

 そのくせ、兄の元嫁を妻にするなど、意外に大胆な所もあったらしい。

  1909年、三芳屋より「義士本伝」なる速記を発売。

 1910年、三芳屋より「正宗孝子伝」なる速記を発売。

 この頃、兄が小石川の寄席を買い取って浪花節専門劇場「入道館」とした。風右衛門はこの小屋を任され、オーナー兼出演者として舞台に立つようになる。

 1913年8月15日より7日間、市村座の浪花節大会に出演。浪花亭峰吉、駒右衛門、重友、春日亭清吉、早川辰燕等が出演。

 1913年9月30日、入道館にて浪花節合同大会を開催。浪花亭峰吉、春日亭清吉、木村重松、玉川勝太郎、そして自分も出演(『都新聞』9月29日号)。

 1914年8月、兄・雲右衛門の番頭、峰田一歩に「小石川入道館」を頼み込み、事実上一線と経営を退く事となった(『都新聞』8月26日号)。

 その後は体調を崩したらしく、闘病の末に1915年4月、兄に先立つ事、40歳で息を引き取った。この風右衛門の夭折が、翌年の雲右衛門の死にまつわる二代目雲右衛門問題に大きな尾を引く事となった。

 墓は雲右衛門と同じ天妙国寺にある。雲右衛門の墓と並んで、史跡扱いにされている。

 風右衛門の死後、弟子の二三右衛門が(勝手に?)「二代目風右衛門」を襲名。そのせいか、翌年雲右衛門が死んだ際、「風右衛門も列席」という謎の矛盾が起こる羽目になっている。

 さらに、未亡人が桃中軒雲州と出来てしまい、雲州は戸籍上で「雲右衛門の義弟」的な形になってしまったというのだからあきれたものである。

 この未亡人は、雲右衛門の一子・稲太郎と仲が悪く、風右衛門の不在もあって、稲太郎をバックにつけた雲太郎と風右衛門未亡人に取り入った雲州とで喧嘩を起す事となった。

 風右衛門が生きていれば、もしかしたら二代目襲名はすんなり決まったのかもしれない。

 風右衛門には娘がおり、「岡本わか」といった。彼女は曲師になり、桃中軒雲衛に嫁いだ。

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