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お爺さんと呼ばれたくない鴈治郎
いよ/\けふで七十三回目のお正月を迎へた鴈治郎、役者に年なしとはいえ紙治を見ても忠兵衛を見てもあれがどうして七十三のお爺さんとは受取れない若々しさ、何とか若返りの秘法があるに違ひないと、鴈治郎ハンに訊くと、若返りは「気」一つだとある、自分はまだ二十代だと思つてゐれば二十代になれるし、生れたばかりと思へば赤ん坊にもなれます、まさか
そんなわけで鴈治郎は、孫にもおぢいさんとは呼ばせず、長三郎や扇雀のやうな大きな倅にお父つさんと呼ばせると、どうも幻滅を感じるといふので、それも云はせない、ムダ口屋がこれを聞いて、すると、コレ弟、とでも呼ばせるのかな
1932年1月1日号
「通天閣とガンジロはんは大阪の顔」と謳われるほどの人気を集めた初代中村鴈治郎は、歌舞伎界でも随一の子福者と知られ、子孫に恵まれた。今なお歌舞伎界の一角を占めているのは鴈治郎の直系である。
長男が林又一郎(長三郎)、二男が扇雀、長女が芳子、次女がたみ。それ以外にもいたが、歌舞伎界に強く関与したのはこの四人の子供であろう。
又一郎には敏夫という嫡子があり、鴈治郎が死んだ時には既に成人をしていた(戦死をするが)。敏夫の息子が今も活躍する林与一。
次男の扇雀(後に二代目鴈治郎)には、扇雀と玉緒という子供があり、扇雀は三代目鴈治郎を襲名。この系統が今も伝わっている。
芳子は女優として活躍する傍ら、四代目中村富十郎と再婚。その間に中村亀鶴という子を儲けた。この亀鶴の子が二代目亀鶴である。
たみは、林長二郎といった長谷川一夫に嫁ぎ、林成年・長谷川季子という子供に恵まれている。この子孫筋も映画界や舞台で活躍しているので、なるほどすごい家である。
そんな鴈治郎であるが、子供へは放任的な立場を取り、「わしの真似をするな、他の役者の演技も勉強して己の得意分野を見つけろ」というのがポリシーであった。
そのため、自分そっくりに演じようとする二男の扇雀と対立をした事がある。
一方、名優・名人といわれた割には非常に質素で子供っぽい所があり、「若い役がなければいやや」「役者は若くして見られんと」という理由で、既に老齢にもかかわらず、重くて綺麗な衣装を着てバテたり、遊技場のパチンコに凝るなど、役者子供の見本のような存在であったという。
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