四代目楽遊候補だった東家左楽遊(二代目)

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四代目楽遊候補だった東家左楽遊(二代目)

 人 物

 東家あずまや 左楽遊さらくゆう(二代目)
 ・本 名 小林 義見
 ・生没年 1902年10月28日~戦後
 ・出身地 福島県 会津若松

 来 歴

 東家左楽遊は戦前戦後活躍した浪曲師。三代目東家楽遊の愛弟子で、師匠の前名である「東家左楽遊」を襲名。東京方の新鋭として認められ、一時は師匠の跡を継いでの四代目襲名さえ期待されたが、遂に大成せずに終わった。

 生年は「陸満普受第四三八号 演芸人関東軍慰問ノ件」(1934年2月17日)に、「浪曲師東家左楽遊事小林義見 明治三十五年十月二十八日生」とある。

 経歴は『都新聞』(1937年5月12日号)に詳しく出ていた。

 今晩「安中草三郎外伝」の「孝子と小松御殿」を語る東家左楽遊は、会津は若松の産、九歳で上京して本郷追分小学校を卒業後、先代楽遊(今の悟楽斎)の門に入り楽坊の奈で当時「小松嵐」で売ってゐた師匠から、例の〽殺さば殺せと孫のとき……といふやつを盛んに習ったものだ、師匠が隠居後は兄弟子の左楽遊が楽遊を襲名、彼は兄の後を追って現名となった、明治卅五年生れだといふから当年は卅六歳、そろ/\油の乗りさうな年輩ではある。

 師匠の楽遊は、入門当時「小松嵐の楽遊」の異名で売れに売れており、左楽遊もその恩恵に授かった事であろう。師匠が売れっ子生活をしていた事もあり、当人はそこまで貧窮する事はなかったようである。

 その中で、師匠から芸題を授けてもらい、東家一門の新鋭として徐々に注目を集めるようになった。師匠譲りの「小松嵐」「忠臣蔵」「安中草三郎」「正宗孝子伝」などを得意として演じていたと聞く。

 1933年2月、師匠が「三代目東家楽遊」を襲名する事となり、弟弟子の彼に「左楽遊を許す」と名跡の禅譲がなされた。楽遊襲名した後に改めて襲名披露を実施。ここで幹部となったという。

 1934年2月25日、「演芸慰問」と称して、神戸港から船に乗り、大連から新教にかけて1月慰問興行を行った。この記録は書類として残っている。

 1934年の番付では、前頭11枚目。前頭筆頭が広沢虎造、二枚目が玉川勝太郎、三枚目が東家楽遊である事を考えると相応の地位である(木村松太郎などよりも上)。

 1935年3月12日、新潟放送に出演し「稲川初上り」を放送。

 1937年5月12日、JOAKに出演し「孝子と小松御殿」を放送。

 1938年の番付では「新進」として、港家小柳や寿々木小米若などと共に若手ポジションにいる。

 しかし、それ以降はどうも鳴かず飛ばずだったようで、兄弟子の三代目東家楽遊ともども、遂に師匠の楽遊を超える人気や名声をえる事はなかった。

 1943年の番付では「検査役」として東若武蔵や寿々木小米造などと共に選出されている。

 戦後も一時期活動し、1950年には「検査役」として書いてある。しかし、その後の番付が消えている。引退した模様か。

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