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渡米した三升家村雲
人 物
三升家 村雲
・本 名 丸山 六郎
・生没年 ??~??
・出身地 福島県
来 歴
三升家村雲は戦前活躍した浪曲師。三升家一俵門下から渡米して、2年近くアメリカで稼いでいたという変わり種であった。アメリカの日系新聞にその名を残す稀有な存在である。
経歴は殆ど謎であるが、東京の三升家一俵の弟子だったらしい。一俵は明治末から大正にかけての売れっ子で、入場料一円を取っても客が押し寄せるほどの人気があった。
『日布時事』(1925年11月8日号)に、
浪曲家村雲来布 浪曲家三升家村雲こと丸山六郎昨朝の天洋丸にて来布した来る十、十一両夜日本館に於て初見得する筈
『ハワイ報知』(1925年11月9日号)に、
村雲の試演 昨夜日本館で 関東派浪花節の三升家村雲は岡崎音槌氏の斡旋で昨夕ホテル街神州チャプスイに各社演芸記者を招待し晩餐会を催し、それより日本館で支援をし赤垣源蔵の一席と、鴨緑江武士、安来節、相馬節、おばこ節などを唄った浪花節は声が充分なる上に三升家一門譲りの節廻しで若手としては語れる方である。
1926年3月には、マウイ島に移動し、同地で興行を行った。当時のチラシを見ると「渡米の途中で立ち寄った」と書いてある。
その言葉の通り、1926年7月渡米。『日布時事』(6月22日号)に、
渡米御挨拶 私事布哇巡業中は各地御引立を蒙り洵に有難く感謝に堪へません。在米同胞の御招きに応じ明日マトソニア号で渡米致ますに就ては乍失礼以紙上御挨拶申上げます
とある。
その後はアメリカに上陸し、サンフランシスコから巡業へ廻った。『ユタ日報』(1926年12月10日号)に、
福島県出身の三升家村雲 愛州繁田椿歳兄から御地へ行ったら宜しくとあつて以来約一カ月、昨日漂然として東北は福島県出身浪花節三升家村雲が本社を訪れた。何しろ東北からは従来あまり芸人の出ない処であって一寸珍らしい感じがする。話して見ると、なか/\快活で成しのよい男である浪花節も一二節やつてもらつたが声量もありなか/\よく出来る夫れに若いから非常に芸に力がある。又熱心でお客さんのお望みとあらば夜明しでもうなりつづけると云ふ精力家だ。又物まねが馬鹿にうまい。各種のを唄ふ、其他落語、義太夫なんでもござれとあるからたまらない三味線はないがキャンプなどでは誠にもつてちゃうほうな芸人である。「一人でも二人でも聞いて下さる人があつたらやります」と云ふ試によい心懸け
1927年の正月はユタ州で迎えている。
その後も1927年末まで2年以上在米で活躍した。
その後、帰国して売り出し――と思いきや消息が途絶えてしまう。番付等にも出てこない。どうしたのだろうか。
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