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妖艶たる浪花家虎筆
人 物
浪花家 虎筆
・本 名 ??
・生没年 ??~1941年以降
・出身地 ??
来 歴
浪花家虎筆は明治から戦前にかけて活躍した女流浪曲師。男の観客を魅了し、勘違いまで生むほどの官能的な美貌と芸風で一時代を築いた。人気の割には謎が多く残る不思議な存在である。
前歴は不明であるが、浪花家小虎丸の弟子であるという。「虎筆」と書いて「こひつ」と読む。なかなか難しい芸名である。
師匠の介護をする傍ら、芸を学び明治末には早くも一枚看板としてデビュー。妖艶な艶姿と芸風で人気を集めた。
「俊徳丸」「小笠原騒動」「義士伝」「明烏」「四谷怪談」などが十八番で、耽美な節まわしで観客を酔いしれさせた。
1915年11月には、京山春駒、京山浅子、吉川燕流と共にハワイへ渡米。各地で大当たりをとり、凄まじい興行成績をおさめたそうだが、その美貌がゆえにストーカーに襲われかけたり、ポスターの写真をはぎ取られたり、と今日のアイドル顔負けの受難に遭遇している。
『マウイ新聞』(1916年4月28日号)に、
●虎筆の危難 惚れられて迷惑
昨年十一月来嶋各地に於て大好評を博したる浪花節京山春駒一行中の太夫浪花家虎筆は予て御存じの如く浪花節も甘いが一寸渋皮が剥けて而も愛嬌タップリなる所より行く先き毎の興行で鼻下長連をしてヤンヤと云はしめたるが先き頃加哇島巡業中ワイメア河野旅館に宿泊して居る所へ去る二十日晩の事とか同地の遊び人村岡某が酔狂の余でか夜の十時頃忍び来つて
▲オイコラ太夫起ろうと丸で押し込み然たる口調でオレは貴様に惚れて来たのだ嫌でも応でも我が意に随はさねば承知せぬが返答はどうじやと既に腕力に訴へんとするより虎筆ビックリして起き上りアラケツタイナと肘鉄砲を喰はしたので村岡早速我が家に帰り出刃庖丁を持ち来たり斬るの突くのと騒ぎ出したる所へ村岡の女房は後を追っ駆け来り無理やり其庖丁を奪ひ取りたるが村岡は今度河野のケチンに飛び込み刺身庖丁を持ち出し暴れ出したる所先方は驚くかと思ひの外
▲遉に旅から旅へ稼ぐ芸人だけに浦若い女で有りながら顔の優しさに似合はずチヤンと口調が面白い『女と思ふて軽蔑たら大間違ひ庖丁位いでウンと頭を縦に振る様な女ではないサー切るなら切れ突なら突け』と無茶苦茶村岡にツヤガミ付き遂に刺身庖丁を奪ひ取つた所へ同地の有志濃人君が馳せ来り村岡を引き連れ帰りたりと
『マウイ新聞』(1916年5月19日号)に、
〇虎筆誘拐さる 二三日前から姿が見へぬ 虎筆の姿が見へぬと云ふとナンだ馬鹿/\しい昨晩太郎の名披露目興行に出演て大好評を博したではないかと云ふ人があろう、夫れは一応最もな話であるが実はこうで御座る
▲虎筆の写真を切り抜く 虎筆が当町へ乗り込む二三日前から各所で張られたビラに春駒と虎筆の写真がチヤンと載てあつた所が誰がしたものか彼所のも此処のもと辻ビラにある虎筆の姿の所丈けが切り抜いてある、思ふに誰れか虎筆に惚れては見たものゝ到底及ばぬ恋と諦らめせめてはの心遣りに姿なりとも肌身離さず霊符とせんとの考へで切取りつたものか兎に角町内の評判は虎筆が誘拐せられたとバツト話が広がたので聞いた儘を書いたのであるが『ドーでゲス』虎筆に夫れ程の思ひ遣りがあるなら幕の一垂でも張り込んで遣つては……何んとも虎筆と名は恐そうでも心は優しいから真実から思ふて呉れる人があるなら又妾じやとて木や石ではなしソコは又アナタハンの…………後の話はバウ
このハワイには1年近く滞在する事となり、春駒共々いい儲けになったという。
帰国後は女流浪曲団を結成し、独自のルートで歩いたが、関東大震災前後より余り表舞台に出て来なくなってしまう。
それでも一応の籍は置いていたらしく、戦時中まで発行されていた浪曲番付に「古顔」として記録されている様子が確認できる。
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