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大阪浪曲の大御所・都家三勝(初代)
人 物
都家 三勝(初代)
・本 名 金子 宮吉
・生没年 1875年6月~1925年以降
・出身地 広島県
来 歴
都家三勝(初代)は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。都家の流れをくみ、都家の名跡を一躍大阪随一のものにした。滑稽物を得意とし、その芸は弟子の二代目三勝に引き継がれる事となる。
経歴は『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』に詳しい。
都家三勝 丈は大阪の浪華節師なり金子国蔵の三男、明治八年六月、広島市西愛宕町に生る、本名宮吉、都家三勝は其芸名なり歳十三、伊予三津ケ濱旅館に奉公す時に都家小三の同地に来るあり丈之を嗜み請ふて其門に入り浪華節を学び小三治と称し各地に巡業し技益々進む後ち門弟に小三治を譲り水から三勝と改称し爾来真打となり各亭席に出演して好評を博す最も得意の語り物は幸田大助東下り、柳川庄八等にして殊に滑稽物を巧みにす現に親友派の会員たり
都家は元々祭文から出た家らしく、明治時代には相当の権力があった。
この三勝もまたその流れをくみ、祭文や浄瑠璃の名残を強く聞かせる浪花節を得意としたという。
1908年、横田伸少年が入門。これがのちの二代目都家三勝である。
明治末には大阪親友協会の幹部に抜擢され、長らくその任にあった。
1920年代まで活躍していたというが、弟子の新勝に「二代目都家三勝」を譲って引退。
その後は寄席の興行主になったらしく、寄席の席亭として余生を送った。一時は金沢にも寄席を持っていたらしく、梅中軒鶯童『浪曲旅芸人』に、
金沢の香林坊に小福座という小さな寄せがあって、大阪の都家三勝さんが経営していた。
という一節が出てくる。
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