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女流浪曲界の元老・吉田奈良女
人 物
吉田 奈良女
・本 名 坂口 なを
・生没年 1876年3月~??
・出身地 兵庫県 岩屋村
来 歴
吉田奈良女は浪花節黎明期に活躍した女流浪曲師。ほぼ独学で一家をなし、吉川亭小福、吉川花子などと並んで、女流浪花節の黎明期の第一人者として華々しい活躍を遂げた。
正岡容『雲右衛門以後』によると、「淡路福良漁師の娘」だという。
経歴は 『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』に詳しい。
吉田奈良 丈は大阪の女浪花節講演家なり明治九年三年兵庫県津名郡岩屋村に生る、本名坂口なをと云ふ二十一歳にして吉田信雀に師事し浪曲を研究す技大に進み全国各地に巡業し女桃井軒を以て名あり二十三歳の時座長の位置を占む其特長の読物は義士、小町奴、後藤三代記、池田内乱記なり方今親友派会員たり
一方、『浪花節名鑑』では「明治13年生れ」「吉田松鶴門下」とある。どちらが本当なのだろうか。
一応は師匠を持って居ていたものの、実際は独学で一家を成した苦労の人であるという。
浪曲がまだ浮かれ節と云った時代から第一線で活躍。恰幅がよく美声の持ち主なのが売りで、押して押して押しまくる浪曲で観客を魅了した。
吉田奈良女――と名乗ったように、初代・二代目吉田奈良丸の影響が強かったそうで、奈良丸系の『義士伝』などといった物を読んだ。また『後藤戦記』『池田騒動』といった軍記、『お俊伝兵衛』など悲恋も読んだという。
明治時代の大看板と数えていいだろう。
1911年10月、『浪花節有名会』に掲載された番付では女流の大幹部として記録されている。
1912年5月、「浪花節十八番集」で「智者の一失書損の掛軸」の速記を掲載。
大正以降は、広沢虎春と手を組んで「良虎会」を結成。二枚看板で仲良く全国を巡業したという。
1923年に掲載された『関西関東浪界名家番付』では山本松子、改心軒女雲と共に行司になって居るがこの頃には一線を退いていた模様。
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