関西浪花節の源流の一人・藤川友丸

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関西浪花節の源流の一人・藤川友丸

 人 物

 藤川ふじかわ 友丸ともまる
 ・本 名 藤川 ?
 ・生没年 ?~1899年頃
 ・出身地 大和国(奈良)

 来 歴

 藤川友丸は浪花節黎明期~明治に活躍した浪曲師。浮かれ節・祭文の時代の芸人で、後に関西浪曲界の頂点に君臨した名人・藤川友春を育成した事で知られる。

 長らく経歴が不明で、単なる浮かれ節や祭文の芸人だと思われていた――が、1910年に発行された『各大家競演大阪浪花節大会 第2編』なる浪曲集の中で、藤川友春がマクラのような形で、この友丸を紹介していた。

私の系統をチョイと茲に記して置きたいと思ひます、私の先代は藤川友丸と申まして、大和国添上郡五ケ谷村の藤川定丸と云ふ人の二代目でございます、其の二代目友丸の私は門人でございます

 これだけであるが、どうも「藤川定丸」という祭文語り(浮かれ節)の弟子で、藤川友丸という名前を拝領した――という形で解釈できる。「大和国」とある所から、奈良県を拠点にしていたのだろう。生まれも奈良だったのだろうか。

 如何せんこの当時の浪花節は流しやヒラキの最下層芸人扱いなのでロクな記録がない。神社仏閣の境内や村の芝居小屋、時には大道で浮かれ節の会を開いて、芸を演じていた――という推測で物を考えるしかないだろう。

 正岡容『日本浪曲史』によると、博打の常習犯だったそうで――

藤川友丸の芸道上の記録は何ら遺されていず、無頼極りない賭博常習者としてのみ、彼の名前はのこっている。

 と何とも頼りない評価がなされている。

 1894年、16歳の富岡長五郎が入門。「藤川友春」と名付けられ、弟子として厳しくしごいたという。

 この友春こそ、後の関西浪曲界で「名人」の名声をほしいままにした藤川友春その人である。

 しかし、友丸は弟子の成功を目の当たりに出来なかったそうで、友春が21歳の時に病死。逆算すると1899年死去という事となる。

『大日本人物誌 一名・現代人名辞書』の藤川友春の項目に――

 十六歳家を脱す時に藤川友丸奈良市に来りて講演す請ふて其門に入り困憊す十八歳京都に於て初めて講演し爾来各席に出演す二十一歳の時師友丸病没し……

 とあるのが確認できる。

 自分の名前を受け継いだ藤川友春は関西随一の名人として数多くの弟子を抱え、弟子のひとりに「藤川友丸」を継がせた。この名跡は三代ほど続く事となる。

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