播磨家から鼈甲斎へ・鼈甲斎左虎丸

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播磨家から鼈甲斎へ・鼈甲斎左虎丸

 人 物

 鼈甲斎べっこうさい 左虎丸さとらまる
 ・本 名 佐野 貞美
 ・生没年 1887年2月19日~1940年代?
 ・出身地 山梨県

 来 歴

 鼈甲斎左虎丸は戦前活躍した浪曲師。元々は播磨家浪右衛門という人の浪曲師の弟子で、師匠の名跡「二代目浪右衛門」として活動していたが、思う所あって鼈甲斎虎丸門下へ移籍し、「鼈甲斎左虎丸」と改名した。

 経歴は『読売新聞』(1929年5月14日号)に詳しい。

鼈甲斎左虎丸は初代播磨家浪右衛門の門人二代目浪右衛門を襲名したが事情あつて鼈甲斎虎丸の門弟分になつて現鼈甲斎左虎丸を名乗ってゐる、節廻しは関西節に近い中京節である語る建久美談は左虎丸の十八番ものの一つ

 また本名と生年等は『浪花節名鑑』より割り出した。

芸名、二代目播磨家浪右衛門 本名、佐野貞美 出生地、山梨県南部 年齢、明治廿年二月十九日生 師名、吉川房雄 初高座、十八歳、改名、大正二年二代目を次ぐ

 初舞台は18歳――1906年だというので相当早い。

 一方、師匠は実力者で明治末の番付では前頭になって居るが、旅回りが多く寄席には余り出なかったために謎が多く残る。

 1914年発行の『浪花節名鑑』に期待の浪曲師として取り上げられている。

 長らく旅回りの芸人として活動していたが、思う所あって二代目鼈甲斎虎丸の門下に移籍し、「鼈甲斎左虎丸」と改名。「播磨家浪右衛門」の名跡を捨てたのは凄まじい決断である。

 1924年10月、東蓄より「豊川利生記」を吹き込み。

 1924年11月、日蓄より「田宮坊太郎」を吹き込み。

 1925年7月、フジより「侠客金子春太郎」を吹き込み。

 1929年5月15日、JOAKに出演し、「建久美談」を放送。

 5月16日~18日にかけて、名古屋放送より「田宮坊太郎」を三日連続で放送している。

 私生活では女が好きで、色々と逸話を残した。『新演芸』(1949年3月号)の「浪界奇人伝」の中に

酒の話が出ましたから次は女。……鼈甲斎左虎丸という、その方にかけての豪の者がいて少し足りないかと思われる面相でしたが、毎日毎晩銭さえあれば遊びに行く。行かないではおれない。というような積極ものではなしに、ほかにどこへ行くところがあろうかという徹底ぶりでした。この人、旅に出て駅に下りると劇場とか宿屋とかへはいかず駅からまっすぐに遊郭へ行く。(つまり公娼のあった頃ですからな。)知った土地なら不思議でもないが、全然始めての土地でも、駅で汽車を下りると道も聞かずにズッーと行く。彼の足の向いたところに必ず遊郭があった。変な話ですが一種のカンですな。これ位の人になるとニオイで判るらしい。ああ、この人です。ある晩口演中に脱線して〽交番の前で若い女が立小便、これを眺めた巡査君、腹が立つやらマラが立つやら……と言って警察に引張られ始末書を取られたという人は。

 1941年の番付までその姿が見えるが、1943年及び戦後の番付になると姿が確認できなくなる。廃業したか、亡くなったか。

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