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ハワイ帰りの東照軒為右衛門
人 物
東照軒 為右衛門
・本 名 四十澤 力太郎
・生没年 1886年3月17日~1918年12月10日
・出身地 ??
来 歴
浪花節の黎明期に活躍した浪曲師。ハワイ・アメリカ本土を5年近く旅回りをしていた異色の人物であった。
前歴は不明。ただ、雲右衛門・奈良丸などの影響を受けて、浪曲師になったという経歴があったらしい。なかなか鉄火肌で良くも悪くも壮士のような人物であったという。
妻の四十澤なつ(1893年9月18日~)に、小なつと名乗らせ、曲師をやらせていた。
1913年5月、ハワイ行を決意し、春陽丸に乗船。弟子と妻を連れたが、眼病になってしまい、上陸が出来なかったという。
5月20日、ハワイに上陸し、各地を巡演し始める。雲右衛門張りの芸で人気を博し、各地で大当たりであったというが、慣れぬ他国の旅ゆえに金貨を盗まれたりもして大変であったという。
8月、ホノルルに上陸し、興行を行うも元浪曲師で興行を行っていた広沢呂虎から横槍が入り、
「東照軒為右衛門なるもの嘗ホノルルに於て日本在国中拙者を前座語りを使いひたる旨放言せし由に侯へ共拙者不肖なりと雖も故国浪界に於て一家の看板を立て来れるもの彼為右衛門如き故国藝界に何等経歴を有さざる風来漢に雇わさるる筈は御座なく右は全く拙者の声名を傷けんが為めにせる事実無根の中傷に存じられ候」
という警告文が当地の新聞に出た程であった。
ただ、為右衛門は経歴こそ問題あれど、一応1915年発行の『芸人名簿』にはしっかり名前が出ているので、呂虎の批判は些か的外れにも見えなくはない。
10月21日、小泉旅館で行われた打ち上げの席において、劇団「改新団」の原田春吉と口論になり、「遊び人が偉そうになんだ。かかってこい」と挑発し、座員一同と大喧嘩。流血騒ぎになるほどの喧嘩となったという。
1914年4月、サンフランシスコに上陸し、当地を巡業。ただ契約期間が短かったのか、間もなくお名残り公演をして帰国している。
これで長い旅も終わりと思いきや、1915年6月、再びハワイ巡業。「電気応用浪花節」と銘打った浪曲で再びハワイ・アメリカ全土を渡る事となる。
当時の新聞を読むと、赤垣源蔵徳利の別れや弥作の鎌腹などを読む傍ら、何度も衣裳の引き抜きを行い、最後に電気の付いた衣装と共にチャンバラを行う――という実に奇天烈なものだったようだが、電気が珍しかった当時は大喝采でよく客を入れたという。
一方で、そうした安直で珍しさ重視のそれはハワイの芸能関係者や論客からひどく貶される事となった。
1915年10月26日、『ハワイ報知』に乗せられた「来布した浪曲家番付」の中で、前頭にランクイン。大関は雲井不如帰と木村重友。
1916年12月27日出発のウィルヘルミナ号でサンフランシスコへ向かった。海上で1917年を迎え、間もなく上陸をしている。
アメリカ巡業はなかなかうまくいかない上に、妻の小なつが病に倒れ、療養生活を送る始末であったという。こうした負担は大きく為右衛門にのしかかった。
1918年10月18日、「為右衛門と連絡が取れない」と当時品川で飲食店を営んでいた弟・義太郎からお叱りの手紙が来る。
これは日米新聞に掲載され、その中には「為右衛門には四つ六つになる子供がいて病の床に伏せていて寝ても覚めても父さんという有様」という惨状がつづられていた。
20日、為右衛門は返答を出し、400ドルを追加で送金したという。
子供たちの養育に妻の治療代と金の工面と仕事の無理に加えて、当時大流行をし、強毒化して問題になっていたスペイン風邪に罹患。弱っていた体にはひとたまりもなく、異国の地で倒れ、そこで亡くなった。
当地で亡くなった事もあってか、『日布時事』(12月20日号)に訃報が乗せられた。
◎為右衛門病死の報 昨年当地より大陸に渡りし例の電気応用浪花節東照軒為右衛門はユタ州ソートレーキ市にて西班牙感冒に罹り去る十日遂に死亡せし由
浪曲を彩った人々 ビックドリームを描きながら、異国の地で流行した病気で無縁仏に近い状態になるとは旅芸人の末路哀れなるものを具現化しているようである。
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