[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
雲右衛門勝りの義士伝の名人・都小円治
人 物
都 小円治
・本 名 渡邊長太郎(後、渡邉和泉)
・生没年 1871年7月10日〜1945年10月4日
・出身地 静岡県小泉村
来 歴
戦前活躍した浪曲師。名古屋を拠点とし、早川辰燕や港家扇蝶と並ぶ名古屋節の大御所として活躍。義士伝を得意とし、雲右衛門にして「小円治の前で義士伝を語れねえ」と感嘆させるほどの実力を誇った。
初代と二代目がやたらごっちゃになるのだが、雲右衛門に「小円治の前では義士伝を……」と言わしめたのは二代目である。初代は浮かれ節の芸人であった。
長太郎は幼名で、後年和泉と改名した。理由は不明である。『大衆芸能資料集成』によると、
静岡県駿東郡小泉村に、父江七、母ツナの三男として生れた。父は土地で酒や干物を商う店を営んでいたが、母は和泉を出産して、産後の肥立ちが悪く、数カ月後に他界した。 和泉は近くに住む叔母の許に十歳位まで預けられ育てられた。その頃から浪花節が好きになり、十一歳の年に奉公に行った隣村の呉服店に行ってから、益々、〈節熱〉にとりつかれ、二十歳の年に初代都小圓治の門に入るべく訪ねた。ここで声しらべをさせられた時に同席していたのが初代の曲師で、初代の実の叔母にあたる駒吉で、この人が後に二代小圓治の妻となり、二代小圓治に多くのネタを授けたという。
『浪曲展望9号』によると、実家は「榊屋」と名乗っていたという。
また、育ての親となった叔母は代官屋敷に奉公した事のある人物だったそうで、長太郎の志を聞き、「芸人になるなら勘当する。しかし、なるなら座長になりなさい。もし座長になって出世したら勘当を許す」と、叱咤激励で送ってくれたという。
20歳の時、東海地方で活躍する都小円治に弟子入りをして「都円朝」。
1893年ころには「都円朝」として一人前になっていたらしく、『上方落語史料集成』に、
橋又座 6月14日~ 浮れ節 都家小円治、円朝、円之助
とある。
名古屋では吉川辰丸、都家小さん、三河家梅車などといった名人から芸を学んだという。ドンドン節の円車とは兄弟分であった。
1899年ころ、師匠に死に別れたらしい。芝清之は『浪曲ファン』の中で、「入門十年で小円治を襲名……」と書いているが、詳細は不明。
さらなる飛躍を求めて東京へ出てくるようになる。神田市場亭に出るようになり、浪花亭駒吉や浪花亭峰吉などと交友を深めたという。
1900年7月、神田市場亭の浪花節投票会で三位に入選。一位は鼈甲斎虎好、二位は浪花亭峰吉。ただ、この時は「都円朝」名義である。
それから間もなくして「都小円治」を襲名した模様。以来、東京でも大看板として君臨。鼈甲斎虎丸、港家扇蝶と共に中京節の啓蒙につとめた。
妻は都駒吉といい、師匠の初代小円治の叔母に当たるという。師匠の叔母と結婚して、自身は師匠の義叔父になったのだから、いい加減と言えばいい加減である。
三味線の名手で、小円治の曲師として連れ添った。姉さん女房だったらしく、『芸人名簿』には「渡邊こま(万延元、一一、二) 」。1860年生れというのだから古株である。
襲名後、故郷に帰ると村総出で歓迎してくれたそうで、叔母も「よく立派になった。勘当を許す」と心から歓迎してくれたという。
1909年7月14日より、大阪の大劇場「弁天座」に出演。『大阪朝日新聞』(7月17日号)に、
◇十四日夜から突然弁天座に現れ出でたる都小圓治は、名古屋一流の浪花節にて、流行の義士伝も読む代りに天一坊実記を得意とするが故に、別段武士道鼓吹の名乗りは揚げねど、頭髪から扮装例の雲式にて節廻しを能く似たり。声は中音にて涼しく美しきこと氷菓子を噛むが如く節に変化なけれど、 時にヤンヤと唸らせることあり。同じ小圓次でこの間から堀江座に現れしは、市川小圓次なり。これは九州より来り、期せずして同名同時に落合う、浪花節芝居とて恰も大阪二輪加の時代物を観るが如く珍々奇妙、夏向きは面白き観物聴物なり。この一座の桃中軒誠は、雲を大将として風、露、月、星、牛などの右衛門揃ひの一派中にあって名の通り一寸変った節で巧いところあるは誠なり。
とある。ちなみに市川小円次は実際に存在した歌舞伎役者で、ケレンの芝居や浪花節芝居など大衆演劇の方面で活躍をしたという。
1912年9月、東家楽遊一座に参加をして、中読みとして御園座や末廣座といった名古屋の大劇場に出演している。
1915年の芸人名簿には、小石川区に居住という形で登録されている。生年はここから導き出した。
芸はうまく、雲右衛門さえも引き寄せないほどの実力であった。学歴はないが、勉強熱心で知り合いの文化人や記者に台本の相談をしたり、歴史的な考証を行って、自分の納得のいくネタ作りや話をこさえていた。
こうした真面目な態度は内外に慕われ、華族や軍人からも贔屓を集めるほどであった。
一方、東京ではなぜか知名度は低く、雲右衛門のような大喝采を得られる事はなかった。檜舞台にはなかなか出ず、遂に雲右衛門や奈良丸に並ぶほどの人気は得られなかった。
芸はうまいが一世を風靡できない歯がゆさから、陰では「寄席雲右衛門」などとあだ名されたという。芝清之は「低音すぎる、今で言えばバイブレーションのある声で、そうした声の陰気さが小円治の売出しを阻害したのではないか」と論じている。
大正以降は友人の三河家梅車・円車などと一座を組んで巡業をしていたが、妻の病気が悪化したため、思うように活動が出来なくなってしまった。
1925年、妻の駒吉が死去。これに落胆した小円治は徐々に舞台から遠ざかるようになり、最終的には富士山の裾野へと移住してしまった。生れが静岡なので帰郷に近いだろう。
一方、1924年に娘・八重子が結婚し、翌年には孫に恵まれている。妻を失いながらも、娘が一本立ちした事も移住の要因だったらしい。
「矢場」と「弓道場」を経営する傍ら、時折近郊の演芸会やお座敷に出演して酒代を稼ぐ楽隠居の日々を送っていたという。どこで覚えたのか弓は相当の腕前で、此の指南でも食べていたという。
もっとも引退したわけではないので、浪曲師との付き合いはあり、浪曲師が訪ねて来ればこれを迎え入れた。
当時、大阪で修業をしていた富士月子、春野百合子、梅中軒鶯童などは、来訪組で、小円治の莫大なネタや達者な呼吸を学ぼうと、巡業や上京の合間を縫って静岡の閑居を訪ね、小円治に多くのネタを教わった。
富士月子には『義士伝』、春野百合子には『高田馬場』『おうた三平』『田宮坊太郎』、鶯童には『稲荷丸由来』などが伝授されている。特に前者二人のネタは、後年一世を風靡した事を思うと、講師役としては大変優れていた模様である。
その閑居や稽古の様子を鶯童は『浪曲旅芸人』の中で触れている。
主目的は静岡県裾野に隠棲している都小円治師に会って芸道の指導を仰ぎ、タネを譲って貰うことであった。
近来春野百合子が絶対的人気を占めるに至った台本、「高田馬場」 「坊太郎子別れ」「おうた三平」等々、珍らしい好題材の出所裾野の小円治師匠である事は、私方で修業していた大倉左門が同じ裾野出身であった関係で私には判っていた。かねて左門を通じて小円治師に依頼してあったので、東京での打合わせを終えて裾野へ急いだ。
都小円治(本名渡辺和泉)は中京で三河屋一門や浪花巳之助(後の原華六)と共に売り出した人、寄席雲右衛門といわれ、ドンドン節で東京の八丁荒しといわれた三河屋円車とは兄弟分、円車、梅車と共に大阪へ来演したこともある。中京では名人といわれた人だが、老後は郷里裾野に独り暮し、お内儀さんが二十何年か前に死去してこのかた独身生活、養女が一人あるがが勤め先きの朝鮮へ同伴していって小円治師は全くの独りっきり、勝間田医院の邸内にある門番長屋のような一室を借りて、家財道具といえば古びた小箪笥一つ、愉しみは一にも酒、二にも酒、養女からの仕送りでは飲み代が足りないから、町や付近の村で催しがあれば出かけていって二席でも三席でも三味線なしで叩いて、謝礼にありつくと当分御機嫌だ。古い馴染の友達と碁でも囲むか半弓でもひくか、そうでなければ暇にあかして上質の和紙に墨筆で丁寧に台本を書くのが日課、まことに愉しい気楽な老後の生活である。
私の訪問を心から喜んで迎えてくれた。初対面のお近づきに私が料亭へお招きして食事を共にし、その料亭の一室を借りて、その日の正午過ぎから、帰阪を予定した夜半の列車時間ギリギリまでに、あれこれと七席喋べって貰って、要所要点を記帳する。身体の余裕があれば一両日宿泊してゆっくり話も聴きたいのだったが、レコード吹込みの日程が決まっていたので、嘆べって貰った七席が頭の中でこんがらがったまま予定の列車に乗る。 寝台車の中で徹夜して、聴いたタネを整理しながら帰阪した。
僅々十数時間の中に小円治師から口頭で譲られた聴き取りのタネは、私にとって大きな収穫であった。聴き取りの七席が全部私のモノになったと言うわけでは無いが、早々舞台に上げた名剣稲荷丸(忠僕直助)や右衛門七の母などは予想外の好評を頂いて面目を施した。
小円治師とはこの機会から格別の縁故がつながり、東海道の巡業には必ず同伴してまわる。 桃谷から寺田町の新居に移ってからは、暫く私の家に滞在して貰って台本の指導にあずかった。台所でチビチビとやりながら、門人たちにもタネを話してやったり浪曲の講義をしたり、時には盃の度が過ぎて呂律が廻らなくなることもある、好いお爺さんだった。
昭和十四年に東京で、米若、友衛、勝太郎の諸君と総和会を結成して、一夜熱海の聚落に長老方を招待しておもてなしした時は、京山幸玉と都小円治師を私がお招きした。戦争が激しくなった頃に、朝鮮の娘のところに来ていると便りがあっただけで、その後音信不通、戦後暫くして裾野を訪ねて見たら、あちらから引揚げて帰国後間もなく死去されたと聞き、早速佐野の山墓に詣でて香華だけは手向けた。墓前に合掌すれば、在りし日の湿顔が浮んで見えるようであった。
1937年、娘夫妻が朝鮮への赴任を命じられ、朝鮮へ引っ越し。再び一人となったが、悠々自適に暮していた。
1939年、大幹部となった鶯童が東京の幹部と結託して、長老たちをもてなす総和会を結成。既に長老となっていた小円治は、京山幸玉と共に熱海の聚楽に呼ばれ、楽しい一夜を過ごしたという。
1943年、孫の出征や統制や空襲を逃れるように朝鮮に嫁いだ八重子の元へ引っ越し。鶯童に「今朝鮮にいる」という便りを送ったという。
『浪曲展望9号』によると、娘・八重子夫妻や孫たちに囲まれて平穏に暮らしていたという。ただ、その頃には既に好きな酒もほとんど飲めず、物資難も加えて毎日一合の酒をなめるように飲んでいたという。
1945年8月に日本は敗戦を迎える。そうしたショックと老齢が合わさったのか、同年10月に昏倒し、そのまま息を引き取った。
没年などは長らく不明であったが、昭和末に芝清之が度重なる調査の末に発掘。記録される事となった。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”lime”]
コメント