ハワイ・アメリカ放浪の鈴木南慶

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ハワイ・アメリカ放浪の鈴木南慶

 人 物

 鈴木すずき 南慶なんけい
 ・本 名 鈴木 南慶?
 ・生没年 1888年頃~1963年以降
 ・出身地 横浜

 来 歴

 鈴木南慶は戦前戦後ハワイを中心に活躍した浪曲師・講談師。元々、浪曲師として売り出していたが、ハワイで御難に遭い、新講談という芸風に転身。浪曲一座に加わりながら、戦後まで約30年間、ハワイの名物芸人として君臨する事となる。

『ハワイタイムス』(1953年12月3日号)にそれらしい経歴が出ていたので引用しよう。

 鈴木南慶 エヘン/\の村井吉山翁引退のけふこの頃、講談と云へば鈴木南慶氏の独り舞台である カビク臭い講談なんて云はうものなら、家庭の主婦達から、貴方は話せない、と目の色を変えられるほど、分けても家庭の主婦や、近頃日本から来た軍人花嫁などの中に恐ろしいほどのファンを持ってゐるのだ 私にはヒロで南慶さんの”保安条例と星亨”を聞いた記憶がある、この間もバスの中でこの事を話すと三十一年前ですよ、と南慶さんも当時が懐かしそうであった、横濱で生れて東京で育った南慶さんは、十一才の時から師匠に就き丸七年間、一人前になるまでには、文字通り臥薪嘗胆の苦しい修業を積んだ、云ふなれば生え抜きの講談師である それが海外放浪三十一年その間アラスカの方まで行って居り、この人位話題の豊かな人も少ない、それに日本にゐた時は宮家に伺候、伊藤痴遊などと一緒に高貴の方のご機嫌も伺って居り、又その浅草時代は古川緑波や徳川夢声などとも交友があったと云ふから話は益々面白いのである

 一方、面識のあった広沢瓢右衛門によると、元々「吉川清」という浪曲師であったという。『ハワイタイムス』(1984年8月16日号)の瓢右衛門のインタビューに、

鈴木南慶は、もと吉川清という浪曲師だったひとですが、一緒にハワイに来た三味線弾きが、日本に帰ってしまったので、仕方なしに講釈師になった、ということでした。

 とある。

 師匠は関東浪曲の幹部だった吉川清之助であろうか。

 1919年冬、北都斎謙遊についてアメリカ・ロサンゼルスに降り立ったのがアメリカコミュニティとの縁故の始まりだろうか。この時すでに「新講談」となっているのが気になるが、「新渡米」とある所から、瓢右衛門の発言は記憶違いでもしている――と解釈しておくべきだろう。

 この渡米以来、北都斎謙遊、東家燕遊、安来節一座――と浪花節芸人を中心にハワイ・アメリカの日本人街を巡演し、在米芸人の一人として頭角を現すようになった。

 講談・浪曲師としてはなかなかの前衛派で、「橘中佐」「江藤新平」「乃木大将」「西園寺公望」「太刀山と芸者」など明治物・現代ものを得意としたという。

 新講談転向後は、講談という表向きで時には浪曲を演じたり、時事問題を論じたり――と色々な話術を駆使する芸人として活躍した模様である。

 後年、ハワイへ移住し、日系コミュニティに出入りするようになった。話術がうまく、清廉潔白な性格で、コミュニケーション能力も高かった事から、早くから打ち解ける事ができた。

 1926年7月には、アメリカ本土に久々に上陸し、各地を回りながらアメリカ本土を横断する――という豪快な旅をしている。

 以来、ハワイへ来る浪曲師や芸人の窓口の一人となったらしく、日本の芸人からも信頼をされた。二代目桃中軒雲右衛門、広沢瓢右衛門、浪花家小虎丸、吉田奈良友などはこの南慶に世話になったらしい。

 太平洋戦争開戦以降は、日本から浪曲三味線が来なくなった事もあって講談一本に転向。戦後まで講談師・司会者としてハワイの日系コミュニティで活躍を続けることとなる。

 戦後は、地元のラジオ放送や各演芸会の余興、またハワイ本願寺の信徒として深く帰依したようで、本願寺関係の祭礼や余興に積極的な出演を見せた。

 1953年末、「1954年限りでハワイを去って、日本へ戻る」ことを表明。

『ハワイタイムス』(1953年12月3日号)の中に「風光明媚のカンツリー・クラブで仕事をする余暇にラヂオに実演に忙しい日を送ってゐる南慶さんも、明年は六十五才、日本は千葉県に引き揚げて、老後を通す計画を進めてゐる」とある。

 30年近くハワイで活躍していた彼の芸を惜しんだ古い仲間たちからお別れ会や送別会を開かれた。

 8月28日、地元のテレビ・KGMBに出演し、お別れ放送と演芸を放送した。当人は義理堅い性格故に「テレビに出るなど勿体ない」と言っていたようだが、周りの援助と勧めで出演が決定した。

 9月2日、ウィルソン号に乗って東京へ帰国。妹と再会し、嬉しさの余り酒を呑みすぎてひっくり返る――という笑い話もあったという。

 帰国後、千葉へ家を建てるつもりでいたがうまくいかず、なぜか福岡へ移住する事となった。『ハワイタイムス』(1954年12月30日号)に帰国後の手紙が掲載されている。

帰国した講談の鈴木南慶氏のカンツリー・クラブの右田愛治氏宛左の如き”博多便り”を送って来た 
前略、ハワイも年の暮れでおいそがしいでせう、皆様いよ/\御元気でおすごし何よりもお祝ひ申上げます下って私共も無事に暮して居りますが本格的の寒さに入ったのでいささか恐れてはおります、しかし見るもの聞くもの総て面白く日本へ戻って本当によかったと喜んでおります、この度福岡市外に住宅を新築いたしました、鼠の住むやうな小さい家です…どなた様でも日本へお出での節にはおたづね下さいませ、小さな家でもニ三人様までは泊ったいただけますから今までの御恩返しに一生懸命サービスいたします、ハワイで計画した様に海のそばへは建てられませんでしたが、福岡博多の停車場より汽車なら十分、電車なら十五分で来られる所で大宰府の天満宮参詣やあの方面の名所巡りに便利の場所です、前もってお知らせ下されば博多駅まで迎いに行きます、何卒ハワイの皆様へよろしく

『ハワイタイムス』(1963年1月2日)の記事の中に「1963年、鈴木南慶氏より年賀状が届く」とあるのでここまでは健在だった模様。

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