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出雲大社一等督事宮川中納言豊国・姉川左近
人 物
姉川 左近
・本 名 ??
・生没年 ??~??
・出身地 ??
来 歴
姉川左近は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。「出雲大社一等督事宮川中納言豊国 帝国無双姉川左近」という滅茶苦茶長い肩書を武器に教育浪曲を演じていたという。
経歴は不明であるが、どうも姉川定吉か、その辺りの弟子であるようである。姉川派は名古屋~関西に実在した浪花節の一派であり、普通に人気はあった。桃中軒、東家が出る前の一大亭号として考えると、そこから出たのは無理もない気がする。
元々は関西圏で浪曲を打っていたらしいが、なぜか出雲大社教に近づき、「出雲大社一等督事宮川中納言豊国」と名乗り、出雲大社教の教義を謳いあげる教育浪曲師となった。
その芸風は奇抜で、束帯姿で舞台に現れ、「これは演芸にあらず、出雲の神のお告げなるぞ」と客の前で説教し、笑う客に「天罰が下るぞ!」と大真面目に説教する――ものであったらしい。これを出雲大社がどこまで認知していたか不明。
1900年代より勃興した浪花節ブームに便乗して、関東にも進出をしている。
『やまと新聞』(1908年7月10日号)のなかに、
◇権大教正の雲右衛門を尻眼にかけて飛出したる浪花節語りあり。本月に入り、横浜席亭日吉へ”出雲大社一等督事宮川中納言豊国”と業々しき立看板にお相伴しての”帝国無双姉川左近”と銘打ったる三味線弾き、何づれは時候あたりかしての白徒と思へど、遂に魅せられて中を覗く、御簾が上がると中納言は烏帽子直垂に杓を斜に構へ、左近は入道頭に紫の直垂、三味線を高く頭上に捧げて、而かも威猛高に佇立っての聴客を睥睨するに先づ気も奪はれ、次いでドドンドーンの楽屋太鼓に伴れて右と左へ三歩づつ分かれ、中納言は赤地に金の縫せる卓子掛けの卓子に撚り、咳一咳として鼻下の八字鬚を捻り、入道左近は揆音高く帝国無双の音色を惜し気もなく弾くさま、到底本気の沙汰にあらず。斯くして中納言の語り出すかと我慢すること五分、彼は目に異様の光を発しつつ、「抑も我が今語らんとするは坊間ありふれたる浪花節にあらず、勿体なくも出雲の神のお告げなるぞ」と、プツと吹出す聴客を「神罰覿面なるぞ」と叱り飛ばし、前口上長々しく語り出すを聞けば珍分漢分の支離滅裂、節節なんぞ殆んどものにならず、てもなく口説節を聴くの感あり。一同アテラレ気味にて簾の下りるまで踏堪ふるものなしとは浪花節の熱度もココに頂上を示せり。
と、からかい半分で紹介されている。これだけ見ても相当珍奇な芸風だった事がうかがえる。
ただ、こうした活動も長くは続かず、後年は神戸で浪花節教室を展開し、素人相手に月謝を取って浪花節を教えていたらしい。
梅中軒鶯童が度胸試しに出た浪花節素人大会の主催はこの姉川左近だったらしく、『浪曲旅芸人』の中にわずかであるが触れられている。
戻ってくると相生座の表が人で埋まるばかり。見れば素人浪花節大会 飛入り勝手次第。当時神戸市内の劇場としては楠公前の大黒座か新開地の相生座、第一流の大劇場でアマチュ ア大会を開く浪花節の豪勢振りは誠に驚くべきものであった。
わが電信坊道場と同様の浪花節指南所が兵庫にもあった。姉川左近という人が主宰するアマチュア道場で、電信坊道場から見ると組織も整った本格的道場であった。この姉川道場が主体となって開催した素人大会なのだ。
入場料五銭、飛入り勝手次第というのが利いて、場内割れるばかりの超満員、なお場外にあふれる人が新開地通りを埋めていた。看板を見るといきなり私は何の怖れ気もなくすぐそのまま本家茶屋から入って行って、早速飛入りを申込んだ。
恐らく早朝から始まっていたらしく、私が飛込んでいった時がまだ正午前だったのに、もう二、三十人も舞台が終ったということだった。尤も飛入りが大部分で、蓄音器で覚えた 一とくだりを演ずるのだが、満員の客に呑まれてか、満足にレコードの一面分を語り終える者は少ない。二タロか三口で行き詰まってしまって、眼を白黒させていると忽ち場内がワーッと湧く、途端にサーッと幕が閉まる、立往生と幕とで舞台の入れ替りより幕引きの道具方は目がまわるほど忙しい。
その後の消息は不明であるが、無名の芸人で終わった模様。
しかし、倉田喜弘『明治大正の民衆娯楽』の中で「奇特な芸人」として紹介されている。一種の名物男であったのは否定できない。
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