[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
元祖女流浪曲大家・菅原千鳥
人 物
菅原 千鳥
・本 名 菅 たかえ
・生没年 ??~1933年以降
・出身地 兵庫県 由良町?
来 歴
菅原千鳥は浪花節黎明期に活躍した女流浪曲師。吉田小奈良、吉川亭小福などと並ぶ職業女流浪曲師の第一線で活躍。元々「京山光高」と名乗っていたが、後年「菅原千鳥」と名を改めている。
生年は不明。本名は『東京明覧』にあったのを参照にした。
『雲右衛門以後』によると、「由良漁師の娘」という。由良は和歌山県の由良町の事だろうか。由良の海でまず筆頭に来るのは、由良湾の事だが――
浪花節がまだ成立するかどうかの1890年代頃に浪花節界入り。京山光丸(本名・吉村清吉)の弟子になり、京山光高と名乗った。この光丸は京山恭安斎の弟子で、若丸や小円の兄弟弟子にあたる。
『季刊浪曲展望7号』(1978年5月号)に掲載された広沢瓢右衛門の回顧録によると、光丸とは夫婦であったという。曰く、
この京山光高と云う人は面白い人だった。淡路島の生まれで田舎回りの浮かれ節、京山光丸と夫婦になって歩いていた、元々農家の娘だから三味線が全然出来ないので御飯たき、洗濯、荷物運びでついてまわっているうちに自然に芸が判って来た。
一番さきに判ったのが自分の男の光丸が、つくづく芸の下手な事だ、それを毎日聞くうちに夫としてのうやまいが持てなくなった。
あんた、昨日の芸題あれどうしたのん、理屈があわないわ、あれだったらお客さんが喜ばない、私しだったらこうやるわ、馬鹿いうな貴様でわかるか、生意気云うなら貴様今晩舞台にあがってやってみよ。エエ私しあの位いならやるわ、其晩舞台に出た、非常にいい声だ喋べる事に順序がある光丸も吃驚してこれからずっとお前やれ、本名お高と云うから名前を光高とつけた、毎晩半年程やっているうちに光高が座長になって光丸が前座に落ちた。
一寸光丸さん、永らく御世話になりました。私しこれでお別れします、どうか幸福に暮して下さい、勝手に離婚宣言してスイスイ東京に走って終って名前も菅原千鳥と改名して、東京で非常に人気になった。今の伊丹秀子さんもこの千鳥さんに永く指導をうけていた。晩年、麗花さんの処によく遊びに来て面白い話を聞かせてくださった。
長らく巡業をしていたが、1900年頃、大阪にやってきてたくましい人気を集めた。『大阪百年史』にも、
「広島からは京山光高がきて小伊勢の塁にせまった。(略)三三年から三四年にかけてのことである。」
とある。小伊勢は当時凄まじい人気を集めていた娘浪曲家・中川小伊勢の事。
1902年頃、上京。この頃既に「京山光高」として一枚看板を張っていた。師匠の光丸や他の関係者と共に浪曲小屋に出演。女性だてらに豪快で、華のある浪花節で高い人気を集めた。
4,5年ほど東京で頑張っていたが、なぜか東京を離れ各地を巡業。その後、本家筋に当る京山恭安斎の率いる畠山部屋に入り、修業を行っていた。この時の後輩が梅中軒鶯童で、『浪曲旅芸人』の中に、
そのころ畠山浪人組の中には、女流の京山光高(後の菅原千鳥)、南洲、恭之助、若光、若之輔、竜鳳等一門の者共や他門の古顔連中がずいぶんいた。
と、回顧されている。畠山部屋では寄席の代演や巡業をもらって芸を磨き、その日その日を送っていたという。
1910年頃、東京に復帰し、一吉川亭小福、浪花梅蝶の三人で「女流三人会」を結成。そのほか、寄席にも出るようになった。
1915年9月、「菅原千鳥」と改名し、各地で改名披露を行っている。もうこの頃には既に一角の女流浪曲師と認められていたらしく、押しも押されぬ大看板であった。
その後は東西の舞台で活躍。女流浪曲一座を率い、特に関西では根強い人気を誇っていた。
1933年1月、浅草音羽座で「菅原千鳥引退公演」を行い引退。天中軒雲月嬢、妻川歌燕などが並んだ。その時はもう相当な年だったというが――
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
コメント