雲右衛門の息子・西岡稲太郎(夢之助)

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雲右衛門の息子・西岡稲太郎(夢之助)

 人 物

 ・本 名 西岡 稲太郎
 ・生没年 1892年~1931年3月22日
 ・出身地 東京

 来 歴

 桃中軒夢之助こと西岡稲太郎は桃中軒雲右衛門の実子。雲右衛門亡き後、事実上の桃中軒宗家を継承したが雲右衛門襲名問題を引き起こしたほか、浪曲界の分裂を起こし、不思議な運命を辿る事となった。

 小繁といった頃の初代桃中軒雲右衛門と品川の寄席「吉十」の娘との間に出生。実母と幼くして生き別れ(夭折したらしい)、雲右衛門に引取られるが雲右衛門も籍を入れず、結局雲右衛門の本妻だった西岡久の籍に入り、「西岡稲太郎」と名乗る。

 お久は実子でもない稲太郎を可愛がり、旅暮らしで奔放な雲右衛門の代わりのするかのごとくに育て上げた。

 当時の雲右衛門は貧乏の上に旅暮らしのために、夫婦仲はあまりよくなく、最終的に雲右衛門の駆け落ち(三味線お浜との駆け落ち事件)で終焉を迎え、お久は実家の九州へと帰って行った。

 その後は母子家庭で九州で育ち、地元の学校を出た。自分を捨てた父への感情は複雑で、長らくわだかまりが残ったという。

 1907年に父の雲右衛門が上京し、大成功を収め、一躍時の人となっているが、この間も長い間のわだかまりがあったと聞く。

 その後、どういう事情があったのか不明であるが、明治末に神奈川県酒匂へと転居。この酒匂に住んでいたのが、当時原稿二重取り問題(ほぼ同じ作品を出版社二社に提出し、原稿料をとったのが問題となった)や人間的関係の問題で文壇を放逐された真山青果であった。

 真山はこの稲太郎青年を目にかけ、良き相談相手となった。稲太郎もこの真山を信頼して父のない自分を慰めるように彼と親しく交友した。

 一時代を築いた雲右衛門と親子の対面し、交流するようになる。ただし、雲右衛門は余りいい父親だったらしく、金や権威に任せて遊びの味を覚えさせるなどした。

 この雲右衛門の乱行は真山青果と対立の種となり、一時期は絶縁寸前に追い込まれた。正岡容『日本浪曲史』に、

 私は戦中三遊亭圓朝を劇化される青果翁に、圓朝その人のことに関して、一、二回会見した。 そのせつ、たまたまこの「雲右衛門」の話が出た。それによると翁は往年、相州酒匂で雲右衛門の一子稲太郎と相識り、父親を怨んで孤独の生活をおくっている彼に同情され、学校その他、進んでいろいろの良き相談相手になってやられた。
 幸いにして稲太郎、学業の成績も良く、翁も世話甲斐あったことを喜んでいられると、息子のよき成長を耳にして喜んだ雲右衛門は、この子をしばしば学校を休ませては巡業先へ呼び寄せた。ばかりか、遊蕩の味さえも教えたりした。
 大憤慨した青果翁は以後父子とも我家へ出入りしてくれるなという意味の手紙を、雲右衛門宛叩きつけたところ、八方陳謝した返事と共に、朝鮮土産なりという大いなる虎の皮一 枚、雲右衛門から贈り届けられた。
 翁はいよいよ憤慨され、敢然とこの虎の皮を送り返した。その後も稲太郎のみは真山家へ出入りして、先年歿するまで親しく交っていたということであるが、じつにこのときの印象を土台に、松崎天民、峰田一歩両氏の資料を得て完成されたのが、かの「桃中軒雲右衛門」であると語られた。

 と、真山青果が直接語った逸話を紹介している。

 ただ、大正に入り雲右衛門が病勝ちになるようになると、恩讐を超えて父子の仲を復活させ、宮崎滔天と共に父を支援した。

 雲右衛門の死の直前に兵役検査に合格し、甲府四十九連隊に所属。兵隊教育を受けた。この兵役中に父の訃報に接した。父の死に目には会えなかった。

 ただ、兵役の途中でちょくちょく帰っていたらしく、死ぬ2週間前の10月24日に雲右衛門と対面し、遺言を書きとめている。

 1916年11月7日、雲右衛門死去。この時、入間川で訓練中だったらしく、訃報を受け取った時には請願休暇をとって急いで父の葬儀に列席したという。

 1917年1月26日、父の納骨式に列席。遺言を読み上げる予定であったが、諸事情のためにやめとなった。遺言は「葬儀は簡素にせよ」「二代目雲右衛門を継ぐな。この芸名は稲太郎に預ける」「追善の講演集や公演は一切辞退する」「借金は棒引きしてくれ」。

 かくして桃中軒宗家分になった稲太郎であったが、雲右衛門の死後「雲右衛門」の名跡を狙う関係者が続出し、その対応に追われた。『都新聞』(1917年10月11日号)に、

◇二代目雲右衛門となる実子西岡稲太郎(二四)を甲府四十九連隊に訪ひ、日曜外出を幸ひに無理から「日蓮記」の一段を聞いて帰って来た者の評に曰く、「当初ははにかむやうだつたが、次第に思切った節廻しを聞かせ、艶のある中甲に得もいへぬ所があつた」といふ。十二月襲名披露を興行した後は、三年隠れて修業を積み、世間には実父以上の芸の力で世に立つと熱心に語つてゐたといふ。

 あれだけ「二代目を出すな」といっていた父の遺言を破り、二代目雲右衛門襲名計画を立てるようになる。

 同年12月16日、桃中軒の定紋を「稲穂巴」に改めることを発表。この時、来春の襲名をほのめかした。

 しかし、素人同然の稲太郎の襲名に疑問を呈す関係者も多く、この襲名はお流れとなった。結局稲太郎は数ある門弟の中から、桃中軒雲太郎に「二代目雲右衛門」を許し、免許を与えた。

 しかし、これに対し楽燕と風右衛門未亡人を味方につけた雲州、興行師を味方につけた武力、白雲などが反発。各地で二代目雲右衛門が乱立する状況を引き起こしてしまった。

 結果として雲右衛門の座は、雲太郎ではなく楽燕の率いた雲州が継ぐ事となり、稲太郎は浪曲界から距離を置かれる事となった。

 その後は母の久と共に暮らしていたが、父から受け継いだ借金や家庭的な問題で困窮が続き、あれだけ憎んでいた父と同じ浪曲の道に入る。どういった理由かわからないが「桃中軒夢之助」を継ぎ、巡業を行う事となった。

 芸は雲右衛門譲りの節と雲右衛門そっくりの風貌で決して悪くなかったそうであるが、如何せん雲右衛門分裂騒動を招いた当事者だけあって関係者との距離は難しく、大きな引き立てをうけられないために、芸人としては中途半端な結果と終ってしまった。

 1927年8月には盗難事件を起こし、警察に逮捕されるなど晩年は非常にわびしいものであった。『羅府新報』(1927年9月11日号)に、

 雲右衛門の息子 待合で賊を働く
 九州巡業の帰途路 車で乗りつけて
 十五日午後五時頃横浜北方町待合稲園へ自動車で乗りつけた一人の客があり芸者をニ三人呼べとの注文に女中が玄関まで出て行つた後で床の間のかけ軸置物等数点を手早く風呂敷に包み持たしてあつた自動車に飛び乗らうとする所を家人が発見近隣の人と漸く取押へ山手署へ突だしが取調の結果この者は
 浪花節語りとして名声をとどろかした桃中軒雲右衛門の実子当時同市元町一ノ七五に住む桃中軒夢之助事西岡米太郎(三一)で九州地方の巡業から帰り桜木町からタクシーに乗つたが金がなかつたので悪心を起したと自首した

 とある。この一件で稲太郎の名声は失墜した。

 それから間もなく病に伏すようになり、義母の西岡久に先駆けて1931年に亡くなった。38歳の若さだったというが、上の年齢などと微妙につじつまが合わない。数え年なのだろうか。

『読売新聞』(1931年3月27日号)の「雲の遺族救済浪曲大会」に、

故桃中軒雲右衛門の長男西岡稲太郎は廿二日夜丗八歳で死去し、未亡人ひさ女一人ぽつちになつたので雲右衛門と親交あつた頭山満、古賀廉造両氏が後援しけふから四日間「故雲右衛門遺族救済特別興行」を浅草の金龍館に開催し、その純益金で遺族を救助する事になり、桃中軒門葉一同は勿論、進んでこの義挙に出演する……

 とある。西岡久は野口洋々が預かって面倒を見ていた。

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