花の命は短くて・桃中軒雲奴

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花の命は短くて・桃中軒雲奴

 人 物

 桃中軒とうちゅうけん 雲奴くもやっこ
 ・本 名 百足 みよ(小塚タマ?)
 ・生没年 1902年9月9日?~1927年1月7日
 ・出身地 北海道?

 来 歴

 桃中軒雲奴は明治末から昭和にかけて活躍した女流浪曲師。美貌と節で売れたが、20代で夭折をした。桃中軒雲奴と名乗っているが雲右衛門とは関係ない。いい加減な話である。

 元々は初代東家楽遊の弟子である三升家一俵の弟子。幼くして舞台に上った模様。

 芸人名簿には「桃中軒雲奴 三 石塚方 百足みよ(明治三五、九、九)」とある。石塚というのは、三升家一俵の事である。

 しかし、芝清之は「本名・小塚タマ。三升家一俵の弟子であったのを、初音会の大谷三蔵氏が引き取って、桃中軒雲奴と命名(大正14年)した」と『浪曲人物史』の中で記している。もしや雲奴は二代存在したのだろうか。そうなると話は別になるのだが――

 しかし、1917年には既に雲奴を名乗っていたのは事実であり、「大正14年命名」はどこから来たのか判然としない。以下はその証拠となる『講談倶楽部』(1917年8月号)掲載の「浪界四十七士」の一節。

 三十六 桃中軒雲奴
 雲奴は女流、否女流と云はんより未だ少女浪花節界と云つた方が適当かも知れない……の横綱である。初代の三升家一俵が、北海道の巡業先で、是れはものになると見込んで連れて来て、一心に教へ込んだものであるが、素質がある所へ仕込み方も可かつたものと見え、未だ十歳か十一二の頃より、天才だの侯のと大騒ぎをされ、今では一枚看板として、何処へ行っても破れ返る様な人気を以て迎へられてゐる。 
 小さい時から声節も美し、加之子供に似合はず啖呵のこなしが巧いものであつた。屹度将来は立派なものになるだらうとは、客の方で斉しく然感じて居たものである。多くの少女浪花節は、単に奈良丸節の少々も演つて一寸でもウマイ所があれば盛んに喝采されるものであるが、雲奴のは其の上に腹からの藝力と云ふものが加はつてゐた。 彼女は器量もよし、何の点から云つても、人気者たるに生れ附いて来てゐる。

 幼くして舞台に上り人気を集めた。その美貌と名声は女流浪曲興行を率いて人気を集めていた大谷三蔵にスカウトされ、初音会のメンバーとなった。

 しかし、20代の若さで病に倒れ、最後は病を押しながら舞台に出ていたという。

 1926年10月16日、JOAKに出演し「雷伝為右衛門」に放送。これが最初の最後のラジオ放送となった。

 当日の『日刊ラヂオ新聞』に芸談が出ている。

本当に辛かつた御難の話
男の様な声で雲奴さん語る
今度が初の女御界の花形桃中軒雲奴さんは、幼い時から
浪花節が無性に好きで堅気の親達の意見を聞かず、十一歳の未だ飯事に夢中になつてゐる年頃にとう/\三升屋一俵師、現在の石塚旭水に頼み込み、廿三歳の今日まで期道で解き上げたのだといふが、流石はそれらしい聲で、姿を見なければまるで男の としてゐる様にしか思へない。最近までは侠客ものが好きで自分でも十八のつもりで読ん でたが此の頃になると如何もそれでは満足出来ず、確か上品で面白いものを読んでみたくなり、今一生懸命に新作ものを探してゐるといふ、『私達は師匠にミッチリ仕込まれたものですが、でも十一や十二の子供の時でも、寒中よく単衣一枚で滝壺の前に立つて、師匠も同様な姿をして鞭を持つて、お稽古をさせられたものですが、ブル/\ふるえながら帰つて来ると直ぐに御褒美が貰へたのが嬉しかつたものです、巡業に出る頃になつて今の木村重正さん夫妻に連れられて方々歩いた時などは行く先々で丗人から二十人十人五人三人と日毎に客はへるばつかり、初めは身の廻りの物を始末しては一日/\を送つてゐましたが、終ひにはそれも無くなり、どうにも仕様がなくなつてとう/\汽車賃だけ都合して空ッ風に追ひまくられながら東京へ舞ひ戻るミジメなこともありました、そしてとうとう丸一日半!呑まず喰わずで汽車にゆられ、新橋駅へ着いたのが夜の十二時、さあ今度は電車賃がありません、皆の財布をはたいてみたが出たのは五厘一つ、途方にくれてゐると昨日から何も食べてない、矢張り九才になる私の三味線の子供が『おぢさんあたいもう動けないよう』と声も出ない位、重正さんも青くなつちやつて、窮すれば通ずでとう/\一策を考へ突然お菓子屋へ飛び込み『おばさんいま犬に追はれて困つてゐるのだからその飴玉でもシヤブラセ様と思ふから一つだけお呉んなと漸くの思ひで一つ買い、その女の子に持たせたものです、さあいよ/\今度は電車と云ふ難物、皆停留所へ立つてボンヤリ考へてゐる所へ、折がいいか悪いか今にも出様とした電車に飛び乗つた西洋人が、何かを落して行つたのです、拾つて見ると十銭銀貨一つ、もうその時の嬉しさは人の物とも考へればこそ、直ぐに電車に乗らうとしたんですが、私が乗つては又私の分を取られるといふので、私は重正さんのお内儀さんにおんぶしてうまく乗つたんですが、さて降りる時にスツカリばれて車掌さんに仔細を話して許して貰ひましたが、本当に子供心にもひや/\した事がありましたよ』

 そして、死を悟った雲奴は、最後の舞台に立ち、お客に別れを告げたという。

 最後の舞台は大谷氏の経営する”千住館”で、死の近づいたのを承知の上でヒイキに入場券を配り、得意の演題(助六)を読み終り幕が閉まると同時に、テーブルの前に倒れて死んだ。
 ヒイキの客はその日、香典を懐に来場して、雲奴の浪花節を聴いていたという。

 とある。その死は長く語りつがれたと聞く――が、出典は判然とせず。『都新聞』辺りだろうか。

 墓は北千住の「常護寺」にあり、戒名は「本光妙珠信女」という。享年は22歳というのだが、それだと上の『芸人名簿』の出生年と食い違ってしまう。

 どこからどこまで本当なのかよくわからない不思議な女浪曲師である。

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