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生蕃呼ばわりされた京山光右衛門
人 物
京山 光右衛門
・本 名 ??
・生没年 ??~戦前
・出身地 ??
来 歴
京山光右衛門は戦前活躍した浪曲師。「電気応用浪花節」という独特の演出で人気を集めた他、日本人離れをした風貌と顔つき故に「生蕃」と呼ばれるほどのものであったという。差別的であるが、すごい。
経歴等は不明。関西の京山光丸という浪曲師の弟子であったが、明治末に上京。東京の浪曲師となった。
1910年4月、真打に昇進。『都新聞』(4月12日号)に、
◇京山光右衛門 今回真打となり、十五日夜より四谷箪笥町京山亭にて其披露をなす由。右に付、師匠は勿論、家元も補助出演すると。尚、東京浪花節組合に限り、下席は毎月十五日を以て開演する由。
その後、真打披露を兼ねてか旅巡業に出ている様子が『近代歌舞伎年表』より伺える。
真打として東京の寄席に出ていたが、色々と不祥事・不義理があり、一時零落。その後、何とか詫びが叶い、浅草に復帰。「浅草館」に立てこもって、「お笑い浪曲」「電気応用浪曲」といった独自の浪曲を演じるようになる。
その特異な芸風と風貌は、『二六夕刊』(1913年6月23日号)の中で茶化されている。
◇祖父さん祖母さん迄は調べが届かねど、両親は正に日本人に相違なきこと、戸籍の表に明らか也。唯人並勝れし巨眼、奥に凹んで遥か彼方に底光りする見合、たとへばトンネル工事のカンテラに似たる面構へに、更に上塗したる色の黒さと未だ伸び揃はぬ乱発が手伝ふて、遂に世間の噂をあっぱれ生蕃にして了へるのみ。本名は知らず、芸名を京山光右衛門と申し、東京の浪界にて並びなき愛嬌ものとして可愛がられし売れっ児が、なまじ軽妙な節廻しを噺されたばかりに、地方巡業の大謀叛に躓き、小ヌカ三合の身の悲しさ、面に似ぬ温順な性質は養ひ親に気を兼てモウこりました、此後、御心配は懸けますまいの御拠立に、月々極つた物の手に入るやう、今の浅草間に身をはめしものにて、ツイ過日も東家楽燕が正面二階から之を聴き、旨いもンだ、惜しいもンだを繰返す袖で控へて事情あつての事ですが、同業の手前、面目次第も有りませんと小さく成つてゐる処に却つて看板の値見えて哀し。滑稽と諧謔を数珠繋ぎに変化自在の節を使つて手繰り出す芸風は先づ公園向浪花節の親玉三月と半歳馴染がつかば人気の程も恐ろしかるべく、現在にても客の六分は皆此生蕃の餌食と知る可し。
その後夭折したらしいが――『芸人名簿』にも名前が出てこない。
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