雲月候補から東家へ・東家三楽(二代目)

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雲月候補から東家へ・東家三楽(二代目)

 人 物

 東家あずまや 三楽さんらく
 ・本 名 小松原 虎雄
 ・生没年 1901年4月17日~1944年7月6日
 ・出身地 栃木県 田沼

 来 歴

 二代目東家三楽は戦前活躍した浪曲師。元々は天中軒雲月の孫弟子で「如雲月」と名乗った人物だが、雲月襲名戦争に敗れ、東家に移籍。楽燕の推せんで「東家三楽」という大名跡を継いで東京の大幹部となった。

 生年は『陸支普大九七六號 船舶乗船ノ件』より割り出した。

 芝清之『浪曲人物史』によると、出身は栃木県田沼。幼くして巡業に来た天中軒小入道の門下に入り、「天中軒八島」と名乗る。師匠に連れられて全国を巡業し、芸を磨いた。

 ただ、師匠には殆ど芸を教えてもらえず、師匠の愛犬の世話役ばかりしていたというのだから、修業の厳しさを伺える。

 若いころは「義士伝」「魚屋本多」「佐倉義民伝」など、雲月系の芸を得意とした。ただ、師匠や雲月と違い、関東節に近い高音の三味線で唸り倒す力演型であった。

 後年、独立して一枚看板で巡業。独立を機に「如雲月」と名を改めたという。時に25歳。

 芸の実力はあり、人気もあったが地方巡業が多かった事もあってか、長らく正統的な評価をうけず、番付などでもろくに扱われていない。

 1930年春、先輩浪曲師・吉田伊左衛門の一座に入り、ハワイ巡業。しかし、ここで気になるのが「天中軒小入道改め天中軒如雲月」という宣伝がなされている事である。

 師匠の名跡を如雲月が一時的に継いだという線は否定できないが、一方で当時の番付を見ると普通に小入道は健在の扱いとなっており、よくわからない。新聞に残っている顔写真を見ると、上の写真とそこそこ似ているので、ハワイに行った事は間違いないのだが、それにしても謎が多い。

疑惑の写真(右から二人目の坊主頭が如雲月)

 1931年、天中軒の元締めである初代雲月が巡業先の九州で発狂し、休業に追い込まれる。数年間、復帰を期待されたが年々病態は悪化し、最終的には廃人となってしまった。

 ハワイ巡業から帰ってきた後は、ハワイ帰りの新人として注目を集めるようになり、中央にも進出するようになる。

 1932年2月、パーロホンより「乃木将軍と百姓太平」を発売。

 1932年5月、パーロホンより「安兵衛の婿入り」を発売。

 1932年4月、パーロホンより「山鹿護送」を発売。これは日文研で聞ける。

 1932年6月、パーロホンより「孝子二宮金次郎」を発売。

 この頃、初代雲月のパトロンを味方に付け、「二代目雲月」を名乗るようになる。これは当然問題視され、雲月襲名戦争と呼ばれる状態に入る。以下のレコードは雲月名義で吹き込まれたものである。

 1933年3月、パーロホンより「礒の源太振袖勝負」を発売。

 1933年4月、パーロホンより「岡野金右ヱ門」を発売。

 1933年5月、パーロホンより「江戸一番伊達男」を発売。これも日文研で聞ける。

「二代目雲月」を勝手に名乗っていることを知った初代雲月の家族は、これに激怒し、興行師の永田貞雄を使って襲名取り消しに出ようとした。永田は自身の妻の雲月嬢を二代目雲月にしたい計算があり、如雲月を激しく攻撃した。

 一方、如雲月も自らの正当性を主張し、永田や関係者に食って掛かった。二大勢力の中は激化し、暴力沙汰も免れないという時に現れたのが東家楽燕で、二組の仲裁を行った。

 楽燕は仲裁の場を設け、「如雲月は雲月の名を返上する」「永田と雲月嬢は返還を条件にこれ以上の干渉をしない」「雲月返上の見返りに、東家三楽を襲名させる」という条件を両者に飲ました。最終的に雲月嬢が二代目雲月を襲名する事となる。

 1934年8月、明治座で「二代目東家三楽襲名披露」を決行。東家楽燕、大和式部、鼈甲斎虎丸、鼈甲斎虎吉、鼈甲斎虎の子が出演。

 大体、無断襲名は総スカンを受けて零落するのがお定まりであるが、この如雲月の場合は「襲名騒動を起こしたおかげで芸が認められて、大名跡を継げる」という珍しいパターンであった。楽燕の取りなしがあったとはいえ、非常に得をしたといえるだろう。

 襲名と前後してコロムビア(リーガルレコード)と専属契約を結び、一躍東京浪曲界を代表する大立者に上り詰めた。どこまでも運が良い男である。

 もっとも明朗で鳴り響く美声と啖呵の実力は決して低いものではなかった。実力相応といえよう。記憶力がよく、明瞭な浪花節から重宝される事となった。

 1934年9月、リーガルより「八丈島情話」を発売。以来、三楽名義での吹き込みとなる。

 1934年10月、リーガルより「間重次郎」を発売。

 1934年11月、リーガルより「柳沢外伝」を発売。

 1934年12月、リーガルより「日本人此処に在り」を発売。当時の軍国的な風潮と相まって大ヒットを飛ばし、三楽は一躍大スターとして雲月嬢にも迫る人気を得た。

 1935年1月、リーガルより「天野屋利兵衛」を発売。

 1935年2月、リーガルより「幡随院長兵衛」を発売。

 1935年3月、リーガルより「大石妻子別れ」を発売。

 1935年4月、リーガルより「東郷元帥と乃木大将」を発売。

 1935年5月、リーガルより「紀伊国屋文左衛門」を発売。

 1935年6月、リーガルより「水戸黄門」を発売。

 1935年7月、リーガルより「忠僕直助」を発売。

 1935年8月、リーガルより「誉れの信号兵曹」を発売。

 1935年9月、リーガルより「塩原太助」を発売。

 1935年10月、リーガルより「重の井子別れ」を発売。

 1935年11月、リーガルより「朝顔日記」を発売。

 1935年12月、リーガルより「寺坂但馬注進」を発売。

 1935年の番付では横綱候補に就任。

 1936年1月、リーガルより「続寺坂但馬注進」を発売。

 1936年2月、リーガルより「木曾情話」を発売。

 1936年3月、リーガルより「恩讐追分節」を発売。

 1936年4月、リーガルより「別れのおけさ」を発売。

 1936年5月、リーガルより「花川戸助六」を発売。

 1936年6月、リーガルより「敵艦見ゆ」を発売。

 1936年7月、リーガルより「さむらひ鴉1篇」を発売。

 1936年8月、リーガルより「さむらひ鴉2篇」を発売。

 1936年9月、リーガルより「さむらひ鴉3篇」を発売。

 1936年10月、リーガルより「伊達の柱石」を発売。

 1936年12月、リーガルより「小夜衣千太郎」を発売。

 1936年の番付では西の別格横綱に就任。

 1937年2月、リーガルより「博多夜船」を発売。

 1937年3月、リーガルより「山鹿護送」を発売。

 1937年4月、リーガルより「満洲思へば」を発売。

 1937年4月、娘の菊江が誕生。この子は三門博の弟子になり、女流浪曲家「三門菊江」として活躍した。

 1937年5月、リーガルより「形見の日の丸」を発売。

 1937年6月、リーガルより「続・形見の日の丸」を発売。

 1937年7月、リーガルより「大坂夏の陣」を発売。

 1937年8月、リーガルより「潮来追分」を発売。

 1937年9月、リーガルより「愛馬の別れ」を発売。

 1937年10月、リーガルより「噫北満の烈士・前篇」を発売。

 1937年11月、リーガルより「荒鷲の母」「噫北満の烈士・後篇」を発売。

 1937年12月、リーガルより「新召集令」を発売。

 1938年1月、リーガルより「誉れの母子」を発売。

 1938年2月、リーガルより「進軍の歌」を発売。

 1938年3月、リーガルより「血染の日の丸」を発売。

 1938年4月、リーガルより「義人村上再び起つ」を発売。

 1938年5月、リーガルより「最期の君が代」を発売。

 1938年6月、リーガルより「大尉の娘」を発売。

 1938年7月、リーガルより「やくざ出征」を発売。

 1938年8月、リーガルより「戦線の奇遇」を発売。

 1938年9月、リーガルより「追分情話」を発売。

 1938年10月、リーガルより「勇敢なる水兵」を発売。

 1938年11月、リーガルより「おけさ部隊」を発売。

 1938年12月、リーガルより「肉弾川村上等兵」を発売。

 1939年1月、リーガルより「日章旗の招く」を発売。

 1939年2月、リーガルより「噫酒井勇軍曹」を発売。

 1939年3月、リーガルより「宇都谷峠」を発売。

 1939年4月、リーガルより「誉れの日本刀」を発売。

 1939年5月、リーガルより「南部坂」を発売。

 1939年6月、リーガルより「三楽雪月花より三日月の影」を発売。

 1939年7月、リーガルより「三楽雪月花より雪の夜の別れ」を発売。

 1939年8月、リーガルより「二人の老兵」を発売。

 1939年9月、リーガルより「軍国水藻の花」を発売。

 1939年10月、リーガルより「還らぬ荒鷲」を発売。

 1939年11月、リーガルより「吉良家の絵図面」を発売。

 1939年12月、リーガルより「三楽雪月花より行宮の桜」を発売。

 1940年1月、リーガルより「七生報国」を発売。

 1940年2月、リーガルより「生還す日本刀」を発売。

 1940年2月、組織改正で成立した「日本浪曲協会」の役員に就任。

 1940年4月、リーガルより「松前情話」を発売。

 1940年5月、リーガルより「富五郎月夜の唄」を発売。

 1940年6月、リーガルより「宵待草部隊長」を発売。

 1940年8月、リーガルより「白衣の聖母」を発売。

 1940年9月、リーガルより「たのしき戦線」を発売。

 1940年11月、リーガルより「血陣の夢」を発売。

 1941年1月、リーガルより「天晴れ班長」を発売。

 1941年5月、リーガルより「輝く父」を発売。

 1941年6月、リーガルより「戦陣訓」を発売。

 1941年7月、リーガルより「月明り笛吹川」を発売。

 1941年9月、リーガルより「仰げ傷痍章」を発売。

 1941年11月、リーガルより「薫る墓標」を発売。

 1941年の番付では、東の大関。

 1942年1月、リーガルより「ノロ高地」を発売。

 1942年1月21日、愛弟子の東家小三楽が広東省東莞県石竜において戦死。28歳の若さであった。三楽は弟子のために葬儀を開いたが、継承者というべき存在の夭折にますます気を病むようになった。

 1942年3月、リーガルより「暁の舟唄」を発売。

 1942年6月、リーガルより「戦国武士道」を発売。この頃よりレコードの制作が制限されるようになり、嘗てのような吹き込みが途絶える。

 1943年1月、リーガルより「総穏寺の仇討」を発売。

 1943年3月、リーガルより「愛馬の歌」を発売。

 この頃から病に苦しむようになったらしく、徐々に表舞台に出なくなった。

 最期は戦争の悪化や物資不足に苦しみながらも娘の菊江の成長を楽しみにしていたが、病状を悪化させ、42歳の若さで死去。

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