[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
独立独歩の式部佐代子
人 物
式部 佐代子
・本 名 萩原 ハヤ
・生没年 1894年9月~??
・出身地 福井県 敦賀市
来 歴
式部佐代子は戦前活躍した浪曲師。天才浪曲師としてデビューし、明治末の東京で爆発的な人気を集めたという。女雲右衛門と謳われた前田八重子の師匠分でもある。
経歴は『駄々子26号』(1915年6月1日発行)に掲載されていた。
式部佐代子 本名は萩原ハヤと云ひ明治二十七年九月越前敦賀に生る。得意の物は岩見重太郎、朝顔、好物は芝居に浄璃食物なんでも、現住所は神田三崎町一の一番地。
また、『浪曲家の生活』によると、「からくりの娘」であったという。
のぞきからくりという見世物が、昭和まであり、のぞきからくりの絵に合せて「ああ~」と文句を唄う芸人が存在したが、そこから浪曲師になったのだろうか。
当時、浪花節が勃興し始めていた大阪で修業をし、独立独歩で人気を築き上げた。女ぶりが良く、顔も良かったため、浪速っ子に愛されたという。
1911年、東京の興行に誘われ上京。この時の人気ぶりが『都新聞』(7月31日号)に掲載されているので引用。
◇関西で評判の好い式部佐代子は今度始めて上京し、三十一日夜から牛込高等演芸館に出演してゐるが、同人は女雲右衛門事、前田八重子の師匠で十七才の時から師匠なしで熱心に励み、節も自分の工夫でつけたとやら。記者は一昨夜、其の試演に「弥作の鎌腹」を聴いたが、女としては腹もあり声も十分で、却々聞きごたへはあつたが、只甲ばかりし過ぎるのが嫌だと思つた。
その後、しばらくの間、東京で興行を続け大変な人気を集めたという。この頃、前田八重子の面倒を見たともいう。
関東大震災前に大阪に戻ったらしいが、前田八重子と違って消息が途絶える。寿引退でもしたのだろうか。
[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]
コメント