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幇間になった敷島武蔵
人 物
敷島 武蔵
・本 名 大和 玉二
・生没年 1892年11月15日~1966年以降
・出身地 東京 深川
来 歴
敷島武蔵は戦前活躍した浪曲師。元々敷島大蔵門下の浪曲師であったが、浪曲よりも雑芸がうまく、周りの勧めで幇間に転向。「桜川和孝」と名乗り、浅草随一の売れっ子として幇間60年以上の生活を送った。戦後まで活躍した。
生年と本名『演芸人関東軍慰問の件』(1933年8月7日)に詳しい。
旧京山敷島事全国桜川会常任幹事 桜川和孝事大和玉二 明治廿五年十一月十五日生
ただし、上の「京山敷島」は偽り。ホントは「敷島武蔵」である。
また、経歴は『読売新聞』(1966年12月10日号)掲載の「たいこもちの心意気」に詳しい。
和孝さんは、この人間の哀歓をうたう世界にはいって、もう五十二年になる。
和孝さんは、たいこもちになる前は、敷島武蔵(たけぞう)というレッキとした芸名をもつ浪曲師だった。深川森下町の大工のセガレに生まれたが、飯よりも浪曲をうなるのが好き。そこで、父親にひっぱたかれながら、二十一の時に浪曲の世界にとび込んだ。そして二年後には亀戸の長楽館で真打ちの披露するほどに出世した。
師匠は当時売れに売れていた敷島大蔵。敷島大蔵について「義士伝」などをよく学び取ったという。
その後、看板披露を行う程の人気を集めたが、幇間に転向。その理由を『読売新聞』で以下のような事を語っている。
和孝さん、いや浪曲師武蔵さんは、自分の声のほかに、十色の声を持っていた。いまでいう声帯模写。たとえば、先々代小さんの声、五代目円蔵の声……。
大正四年十月、武蔵さんが二十四歳のとき、ひいき筋のだんなが病気で浅草の病院に入院した。この病人、たいへんなさびしがりや。そこで、ひいきの芸人を毎日毎晩自分のまくら元に呼び、病室を個室寄席に仕立てていた。
今ならば、さしずめ病院から追放されるだろうが、そこは、よき時代の浅草。看護婦や医者までがイスを持ち込んでこの寄席を楽しんでいた。武蔵さんも、呼ばれて自分の声や他人の声で、浪曲をはじめ落語、講談をぶちまくった。この謝礼が一回二十円。なにしろ大学出の初任給が四十円、たいこもちが五軒の料亭、貸し座敷を掛け持ちで三円という時代だったから、病室の高座とはいえ、ゆめおろそかにはできなかった。
浪曲師武蔵の落語、講談を聞いてびっくりしたのが、当時浅草でならした、たいこもちの桜川遊孝。「客分でもいいから、ぜひ自分のところにこさせてほしい」と病院のだんなに通じて頼み込んできた。
「じょうだんじゃない。芸者のケツにくっついて行くのはお断り」と断ったが、だんなのたっての頼みについに折れた。十一月十七日、浅草の料亭でそのおひろめ。大広間には、病人のだんなさんが「お約束」つけて呼んだ、一流の芸者が四十八人。「そのケンラン豪華さといったらなかった」そうだ。おまけに”スカウト”した遊孝さんは、武蔵にかわる和孝という源氏名を用意、ノレンもつくってくれた。
その後は浅草所属の幇間として活躍。一時期は100件以上仕事をこなす人気幇間となった。幇間でお馴染みの舞踊や声色、浅草寺の「仁王」を模した「仁王踊り」といった珍芸のほか、浪曲や講談も演じる器用な芸人として多くの旦那を抱えたという。
1933年8月には、落語家の三代目三遊亭円遊と共に新京・大連の日本軍相手に慰問を行い、表彰されている。
戦時中は「桜川幇間組合」の会長になり、献金や慰問などを行っていたが、戦争悪化に伴い職場が縮小され、長らく辛い日々を送る事となる。
戦後は復活した浅草で相変わらず幇間を続け、古い贔屓たちと遊んでいたというが、レジャーの発達や幇間の減少で色々と寂しい思いをすることとなった。
一方でその芸歴と実力は「無形文化財」と称される程だったそうで、幇間の生き残りとしていろいろと取り上げられることとなった。
1966年12月11日には、隅田公園の台東体育館を借りて、「慈善ショー」を開催。古い友人のエノケンや田谷力三郎、藤原義江、熊岡天堂、桂文楽などが列席し、この売り上げをチャリティーとして納めたという。
当人も珍芸と踊りのほか、若い頃に覚えた「義士伝」を新講談風に演じて喝采を得たという。
1970年代まで健在だったというが、老齢の為に一線を退き、いつの間にか亡くなったらしい。
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