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野球狂・木村友信
野球ユニフォーム姿の友信
人 物
木村 友信
・本 名 金子 慶次郎
・生没年 1896年~1973年9月30日
・出身地 埼玉県 川口市
来 歴
埼玉県川口市の鋳物屋の倅。幼い頃に鉄筋工場に奉公へ出され、親の跡を継ぐべく働いていたが、23歳の時、退職して三升家一俵の門下に入り、「三升家小一俵」と名乗る。
間もなく三升家一門を出て、東武蔵の門下に移籍。「東武松」と名乗る。
しかし、ここも長続きはせず、木村重友の門下に移って、「木村友信」と改名。やっと落ち着いて修業できるようになったという。
若い頃から美音が売りだったらしく、重友に入門して2年後の28歳で看板披露をし、一人前として認められている。兄弟弟子の友衛や友忠にも可愛がられ、めきめきと頭角を現す事となる。
一方、『読売新聞』(1928年6月25日号)では少し経歴が違っている。
友信クンは関東派の重鎮木村重友の愛弟子、お馴染の友忠、友衛の弟弟子で評判の美音家である。廿六歳までは鉄筋工を勤めてゐたが浪花節は好きな道とて大正八年の春、重友の門下となつて修業した甲斐あつて二年後には真打となつた。
ここでいう26歳とは重友の弟子になった時点の時間軸と考えるべきか。それ以前の経歴が省略されている気がするのである。
師匠譲りの演題の他、東武蔵から譲ってもらった「薮原検校」など珍しいネタも読めた。生粋の関東節だったそうで、主に寄席で活躍を続けた。また、盲人のマネが非常に上手く、「薮原検校」で検校の仕草をすると拍手喝さいであったという。
浪曲界随一の野球狂として有名だったそうで、大先輩の篠田実や兄弟子の木村友衛からも認められるほどであった。前述の『読売新聞』に、
道楽としては浪曲家仲間の篠田実を主将とした友衛、左楽燕等が組織してゐる野球チームの左翼手を勤めて暇さへあればバットやグローブを手にしてゐる。
とある。ブロマイドにも自分のユニフォーム姿をやったというのだから、並大抵のものではない。
1928年6月25日、JOAKに出演し、『秀吉の生い立ち』を放送している。曲師は吉川千代。
1929年2月10日、JOAKの浪曲大会に出演。木村一門総出の掛合浪曲『河内山』に出演し、桜井幸之進を勤めている。河内山は友衛、北村大膳は友忠。
1929年10月15日、名古屋放送から全国中継で『孝女お里枝』を放送。
1934年5月13日、「浪花節の午後」に出演。『孝女お里枝』を放送している。共演者は、港家華柳丸、木村重行、東家楽声。
1935年1月、リーガルレコードより『赤城颪』を吹き込んでいる。他にも数枚各社から吹き込んでいる。
1937年4月7日、JOAKより全国放送で『三つ木文蔵』を放送。
1937年11月30日、JOAKより全国放送で『孝子富蔵』を放送。
1938年4月25日、JOAKより全国放送で『太閤記』を放送。
1939年2月10日、NHKより全国中継で『孝女お里枝』を放送。
高い実力はあったものの、遂に大看板になり損ねたのは博打が大好きだったせいだという。嘉山登一郎は『月刊浪曲』(1988年3月号)の中で「この男も博打が好きで、手前の家を博打場にして、場代をとっている内に…自分の浪花節が駄目になっちゃった(笑)」と語っている。
戦後も東横有名会や浪曲大会に出演し、達者な所を見せて居たが、1950年に引退を志し、引退を決行。
多くの仕事を抱えていたにもかかわらず、それらをすべてキャンセルする程というのだから、相当の覚悟の末であったという。
引退後は子供もいない気楽さから、鋳物に必要なコークスや石炭を卸売りする商売をやって安楽に暮らしたという。
1973年9月30日に死去。墓は川口市の善光寺にあるという。
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