名古屋興行界の顔役・広沢當昇(二代目)

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

名古屋興行界の顔役・広沢當昇(二代目)

 人 物

 広沢ひろさわ 當昇としょう(二代目)
 ・本 名 岡崎 浅治郎
 ・生没年 1886年1月~1969年1月10日
 ・出身地 大阪

 来 歴

 二代目広沢當昇は戦前活躍した浪曲師。初代広沢當昇の弟子で、師匠に見込まれて二代目を襲名したが志あって芸人を廃業し、名古屋へ移住。興行師となって成功をおさめ、戦後は名古屋の興行界の顔役として大いに権威を振るったという。

 経歴は1914年に出された『浪花節名鑑』に詳しい。

 氏は明治十九年一月大阪市南区難波河原町二丁目一四五九番地に生る、難波高等小学校卒業後商船学校私立東雲在学中孜々として勉学に余念なかりしがその十九歳の時浪花節を以て身を立てんと初代廣澤當昇の門に入り、大正元年九月より浪界の大家吉田奈良丸に見込まれ一年四カ月奈良丸に従ひ修業なし奈良丸の膝下を去り師匠二代目巌輔より廿六人の門人中。氏は見込まれ師の前名當昇の名を授かる。

 当時としては珍しい高学歴の人物で、計算や語彙力、交渉術などに優れ、何かと学のない浪曲師たちにとっては優秀なマネージャー的な一面も担っていたという。

 一方で幼いころから荒くれだったそうで、一時は博徒みたいな事もやって居たらしい。『大須大福帳』の中に―― 

 後に一角の興行師として名を成した岡崎浅治郎は、若い頃は博徒であったが、大阪在住の頃には二代目広沢当昇を名乗る浪曲師となり、女房は二代目吉田奈良丸の三味線弾きを勤めていた。その関係で、師匠の二代目の用心棒を自ら任じて、番付などを売っていた。

 と暴露されている。ただゴシップ臭い所があるのは差し引くべきだろう。

 ただ、梅中軒鶯童も「明け暮れ喧嘩口論で手の付けられないヤンチャで知られた」と記しているので、博徒気質があったのは事実なのかもしれない。

 浪曲師としては師匠譲りの古典を得意とし、じっくりと聞かせる話術の持ち主だったという。『祐天吉松』『成田利生記』『太閤記』といった古典を自由自在に読んだという。

 芸が達者で頭もよかったところから、師匠にも見込まれ、二代目當昇の襲名を許される。

『増補浪花節名鑑』では「明治39年、弟子の正円に名前を譲り」とあるのだが、計算が合わない。上の記載から参考にすると大正2年頃に當昇を襲名させたと見るべきだろうか。

 1914年の『浪花節名鑑』では「正円改め二代目當昇」となって居る。

 1923年頃、芸能界を引退。当時健在であった師匠に「當昇」の名を返却している。

 結局、當昇の名前は、弟弟子で広沢瓢右衛門の兄だった當右衛門が受け継ぎ、1924年9月、「三代目當昇襲名披露・二代目巌輔引退披露」という形で実施された。

 1925年頃、名古屋へ移住し、「岡崎興行社」という興行社を設立して興行師になった。名古屋の劇場を買い込んで興行主・劇場主に転身。

 この劇場獲得に悶着があったそうで、『大須大福帳』の中で――

 昔、中区仲ノ町に、ドサ回りの役者達を泊める「岡崎屋」という安宿があった。昭和十 年頃でも朝晩二食付きで一泊五十銭。金の無い者には三十五銭でも泊めてくれたというから、全く驚いた話である。その代り、朝食は味噌汁にタクアン福神漬を添えた丼飯だけ。夕食は味噌汁の代りに野菜の煮付けもの一皿であった。
 岡崎は大正十四年頃に来名した時、その岡崎屋で泊めてもらって職探しをしている中に、当時の敷島座に縁あって出入りするようになった。
 持前の才覚と度胸で、文長通りの矢納一家の事務所に、広沢興行社という興行師の看板を上げた。そして、港座と敷島座の小屋主であった青木から、敷島座を借りて興行するようになった。
 たまたま、小屋が小さかった上に客寄せの条件が不備だったので、警察から改善命令が 出た。困った青木から相談を受けた岡崎は、小屋の裏手の浅間神社横で営業していた水谷写真館に交渉して、その地所の一部分を分譲してもらい、幅一間にも満たない非常口を作って、再申請した時に青木に黙って岡崎個人名義の興行許可証を取りつけ、青木から体良く乗取った形となった。
 収まらないのは青木の方。一悶着あった末に仲介者を入れて、正式に売買契約を結び、岡崎は二代目吉田奈良丸の援助を仰いで内金を支払い、残金は一定期間を決めて日銭で十七円五十銭づつ支払って、青木に返済するということで話合いがついた。
 それからは、師匠の大和之丞の名に因んで「大和座」と改称して、岡崎個人で興行するようになった。

 よくも悪くも破天荒で博打的な興行に打って出たことが暴露されている。

 吉田奈良丸の援助もあって無事に独立を果たした彼は、次々と劇場を買い上げていき、浪曲業界にも強い影響力を持つ人物となった。関東浪曲界にも関与するようになり、多くの知友を取り上げては東西交流を計った隠れた功績があるという。

 梅中軒鶯童は『浪曲旅芸人』の中で――

岡崎氏は広沢当昇の弟子で、正円と言っていた浪花節、明け暮れ喧嘩口論で手のつけられないヤンチャ(上方方言で暴れ者の事)で通った男だった。二代目当昇を継いだ後、名古屋大須の桔梗座を経営すると同時に舞台を退いた。桔梗座が大和座となり岡崎浅治郎は押しも押されもせぬ大興行師、親分と言われる顔役になった。粗暴なヤンチャ時代は昔々の事、いまはもっぱら自省修身、他人の事でもよく世話を焼いてくれるいい小父さん、この総和会も岡崎さんが産みの親だといってもよいのであった。

 大和座や複数の映画館を経営して名古屋興行界の顔役として知られていたが、1945年の名古屋大空襲で大和座をはじめ、多くの劇場を失い、戦後は苦しい思いをしたという。

 それでも一から出直すつもりで劇場や寄席の再建に走り、芸能配給や芸人の斡旋も行って再び顔役としての地位を得た。また、愛知競艇の大株主となり、その利益で会社を回す才覚も持っていたという。

 戦後は愛知県の興行主を集めた団体「愛知県興行会」を結成し、そこの会長に収まった。戦後も名古屋へ来演する芸人や俳優から「旦那」「親分」と呼ばれ、安楽な老後を過ごしたという。

 80過ぎてもカクシャクしていたが、最晩年は病に倒れ、1969年1月10日、急性呼吸器炎のために84歳で亡くなった――と『実録浪曲史』にある。

[random_button label=”他の「ハナシ」を探す” size=”l” color=”indigo”]

コメント

タイトルとURLをコピーしました