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宮崎滔天の息子・桃中軒夢之助
人 物
桃中軒 夢之助
・本 名 宮崎 震作
・生没年 1894年9月6日~1936年2月24日
・出身地 熊本県玉名郡荒尾村
来 歴
桃中軒雲之助とは戦前活躍した浪曲師。孫文のパトロンで大陸浪人の親玉として知られた宮崎滔天の二男である。社会運動家の宮崎龍介は実兄、柳原白蓮は義姉に当たる。父親以上の才覚を見せたが、宮崎滔天の息子たちの中では一番早く亡くなった。
父親は宮崎滔天こと寅蔵、母は宮崎槌子。兄に宮崎龍介がいる。当時、滔天が熊本に居を構えていた(滔天の故郷でもある)関係から、熊本生まれという事になっている。
有名な父の下で生まれたが、長らく貧困に喘いだ。父の滔天は滅多に家に帰らず、生活費も送金しなかった。母の槌子は乳牛を買って生計を立てようとしたがどれもこれも失敗し、最終的には実家に転がり込んだり(槌子の実家は豪農だった)、夫の実家に転がり込んだりしてその日を過ごす――そんな日々を過ごしていたという。
1905年正月、兄の龍介と共に上京して、父のいる四谷愛住町の二軒長屋に転がり込んだ。さらに母と妹・セツが遅れて上京し、東京生活がはじまった。
当然、金はなく、母の内職、父の浪花節でギリギリ食っているような始末であった。孫文が来日亡命し、滔天の家に転がり込んだ際も、彼をもてなす風呂がないため、近くの家から薪や枝をとって来て、なんとか湯を沸かすような始末であったという。孫文はこの時の滔天一家の義侠心を感動し、後年までおぼえていたという。
兄の龍介と共に未来を望まれ、貧しい家庭の中から学校へと通ったが、震作は学業よりも芸人稼業を撰んだ。この頃から父の師匠分である桃中軒雲右衛門と面識を得ている。
また、父の関係で犬養毅、頭山満などといった政治家や運動家とも面識を得た。滔天の息子程度の認識だったらしいが、それでもこれらの経験は大きな糧となった。
1908年夏、父・滔天は友人の萱野長知、犬養毅の頼みで犬養が秘密裏に提供した孫文宛の大小刀40本を受け持つ事となった。頭山満の出入りしていた信濃屋という旅館にこれを隠した萱野は、滔天と結託して官憲の目をそむいてこれを持ち出そうとした。萱野たちが酒宴を開いて官憲のスキを引いている内に、滔天は震作と共に炭屋の恰好をして「炭屋でございます」といいながら、そのまま俵を持って行った――という伝説が残っている(杉森久英『頭山満と陸奥・小村』)。震作は年齢的にちょうどよかった事もあるのか、小僧役を命じられたという。
後年、父の関係から桃中軒雲右衛門から浪花節の手ほどきを受け、「桃中軒震作」と名乗るようになる。早稲田に通いながら寄席に出演するようになった。後年、「若雲」ついで「夢之助」と改名し、一本立ちをした。
ただ、夢之助の名前は雲右衛門の倅、稲太郎も名乗っていた事がある上に、「桃中軒雲之助」という資料もあるため、錯綜している。
浪花節は父譲りの新作、政談のような事を得意としたほか、持ち前の知識や何やらで『天草四郎』なども読んだ。
1916年11月、雲右衛門が死んだ際に父の代理として師匠の臨終をみとった。その席にいたのは松崎天民と弟子数人だけであったという――が、雲右衛門は結核だった関係から人を寄せなかったともいう。
師匠亡き後、一本立ちをして寄席や巡業に出るようになった。
『講談倶楽部』(1917年8月号)掲載の「浪界四十七士」の中に、当時の活躍を記したものがある。
四十六 桃中軒夢之助
桃中軒夢之助は、宮崎滔天の次男で早稲田の学生である。学校に通ひ乍ら、傍ら浪花節を演つてゐる。政治上の天下と浪花節の天下と、双方乍ら取る心算かは知らぬが、さりとは余り欲が深過ぎはせずや。
学校の方の成績の如何は知らねど、浪花節の方は数年前に比してメキ/\巧くなつた。乃父滔天の浪花節は浪花節外の浪花節として価値のある物で、決して普通の浪花節としての芸ではなかつた。が夢之助の浪花節は普通の浪花節として親父さんよりは数段上にある。
東京市内の寄席では勿論、休暇を利用しては静岡、八王子等へ遠出の興行を試みてゐるが、毎時も相当の成績を上げてゐる。学生浪花節としては唯一人である。
その後も着実に活動の幅を広げ、雲右衛門節を伝える貴重な人材として評価されるようになった。
1922年12月、父の滔天死去。この死の前後で滔天から「白浪庵滔天」の名を譲られ、これを芸名として活動するようになる。
父の死の前後で、中国長春にいた安藤敬友なる人物の提唱する「芳流曲」なる新しい語り物文芸に賛同し、彼の売り込みに励んだ。
1922年12月14日はなぜか長春におり、安藤の「芳流曲」の披露会に出ていた。『長春實業新聞』(1923年1月11日号)の中に、
□コノ忘年会が終つて僕が御大典記念館にブラ/\行いたら一人の倶楽部会員が僕に改めてコノ安藤君を紹介して何分宜しくとのことだつた、談話室で茶を喫しながらイロイロ話を旧臘遂に白玉楼の人となつた支那浪人の巨人宮崎虎蔵翁の第二子で雲右衛門晩年の愛弟子なりし桃中軒震作……後に夢之助と称し若雲と名乗り、遂に乃父の名を襲いで、二代目白浪庵滔天(コレ虎蔵翁の雅号で浪花節の芸名ではない、コノ方は桃中軒牛右衛門といつた、乃父も一時雲の門下になつたことがある)と称して居る宮崎震作君の友人であるといふ
と紹介され、同じく大学出身の浪曲師・本田燕左衛門と三人で「芳流曲」を流行らせたい旨が書かれている。
その願いはかなう事はなかったが、浪曲師としてはそこそこの地位を築き、運動家と浪花節の二足草鞋を履いた。
自慢の人脈や父の威光もうまく使って浪曲師間の結束を高め、1924年には震災で一度壊滅した東京浪花節協会の再興に一枚噛んだ。
1924年12月、浅草松竹座で行われた「東京浪花節協会発会記念興行」に出演。東家楽燕、二代目桃中軒雲右衛門、鼈甲斎虎丸、木村重友などと共に舞台に出ている。
その後もしばらくの間舞台に出ていたが、昭和に入るとあまり率先して出て来なくなる。理由は不明。
1929年、孫文が亡くなった際には「孫文の恩人」という形で中国国民政府から中国に招かれ、兄の龍介、母の槌子と共に孫文の大典に携わっている。
1929年6月に行われた孫文大典には、来賓として多くの弔問客の中で目立つ席に座ったという。
1929年10月29~30日、京城で「講演と浪曲の会」を実施。中国問題と、浪曲の義士伝や馬場の大盃を固めて演じている。
1929年11月には、久方ぶりに浅草初音館でトリを務める。東家小楽遊や東若武蔵が脇を固めた。
1931年3月26日より5日間、浅草金竜館で行われた「雲右衛門遺族救済会」に出演。旧知の頭山満が挨拶を勤め、敷島大蔵、東家楽燕、木村重友、桃中軒青雲、峰右衛門などが列席した。
その後は体調を崩すようになったらしく、兄龍介と違って表舞台に出なくなった。「宮崎兄弟記念館」によると1936年に没。母の槌子に先駆けての夭折であった。
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