竹川一家の嫡男・竹川馬生

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竹川一家の嫡男・竹川馬生

 人 物

 竹川たけがわ 馬生ばしょう
 ・本 名 西島 房吉
 ・生没年 1889年5月5日~1960年6月23日
 ・出身地 奈良県 香芝市

 来 歴

 父は奈良随一の幕臣、竹川忠治という男であったが、明治維新に伴い職を失った。浮かれ節の吉田音丸に入門して、芸人になってしまった。

 父の関係から幼くして浮かれ節を仕込まれ、芸人として舞台に立ったという。馬生の妹は、ハワイやアメリカへも行った女流浪曲、前田節子。さらに弟に吉田弥壽春、雲右衛門の養子・神谷音次郎、末妹に梅中軒鶯童の妻となった光子がいる。大変な一門である。

 13歳のときに京山若丸門下に入り、京山若之助としてデビュー。

 17歳のとき、父の家の名をついで竹川五月と改名。

 18歳のときに上京し、伊豆から関東にかけて巡業し、芸を磨いた。

 帰阪後、井上晴夢(広沢虎吉)に認められて看板となり、竹川馬生と改名した。

 1912年3月31日、早稲田座でリサイタルを行っている。

 幼いころから父や関係者から芸の手ほどきを受けた事もあり、ネタの数は無尽蔵であったという。芸熱心で多くの作品を自家薬籠中の物とした。『太閤記』『日蓮記』『天神記』などといった続きものは殆ど前段読み通したという。

 1927年、山海呑龍と改名。理由は不明。竹川馬生の名は弟子に譲られた。

 妹の前田節子などと比べると地味であったが、芸がうまかった事もあって、多くの一座や関係者の中読みとして活躍した。

 1929年7月20日~26日、女雲右衛門の一座に参加し、中読みとして『太閤記』を連続口演している。

 戦後も地方巡業で活躍したが、長年愛飲した酒がたたって肝臓がんに倒れ、1960年に息を引き取った。

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