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探偵読みの雲井雷太郎
人 物
雲井 雷太郎
・本 名 山中 哲之助
・生没年 1888年3月21日~1937年頃?
・出身地 東京 氷川村
来 歴
雲井雷太郎は戦前活躍した浪曲師。浪花亭の流れをくむ人物であるが、読み物は村正勘次を筆頭に独特の探偵ものを読んだ。端物を得意とし、貴重な中読みとして活躍した。
経歴は『読売新聞』(1929年7月16日号)に出ている。
けふのお昼に浪花節『祐天仙之助』を語る雲井雷太郎は関東派若手の中堅、義士伝も、三尺物も得意に語るといふ極めて器用な男、出身地は
◇……奥多摩氷川村、十六、七歳の頃から浪花節が好きになり天狗連の仲間に入って声の良いのを自慢にしてゐた、廿三歳の時自ら座長となり北海道を巡業してゐる内、後援者も出来一本立になるやうになつた、現在の雲井雷太郎の芸名はその頃から名乗ってゐる、その後アメリカ巡業を志ざし、二か年半程アメリカの在留邦人を喜ばし帰国して間もなく
◇……親睦会の頭取浪花亭〆太に引き立てられて同会の幹部となつて浪曲道に精進してゐる
事実上の師匠は二代目浪花亭〆太という形で系図などでは記録されているが、当人が尊敬したのは雲右衛門や早川辰燕というのだからなんとも、なんともである。
生年月日は、『芸人名簿』から採録した。
明治30年代後半に、二代目〆太に入門――というが、駆け出しのころは謎が残る。「浪花亭某」と名乗っていたのだろうか。
1915年時点では既に「雲井雷太郎」となっている。
1915年夏、早川辰燕にスカウトされて、アメリカ巡業に出かける。一行は早川辰燕、早川燕三、早川とよ子(三味線)。
8月1日、サンフランシスコに到着。サクラメントを皮切りに巡演を始める。
早川辰燕の看板もあってか、評判は上々で雷太郎もいい勉強になったという。なにせ天下の辰燕と称された人物を長い間間近で見られたのだから、上手くならないはずがない。
1916年の正月はアメリカ合衆国で迎えた。貴重な経験である。
その後、二代目浪花亭〆太に引き立てられ、中堅として活躍した。
活躍の場は主に寄席だったそうで、ケレンや探偵ものを得意とした。「端物が得意」と自嘲したように、長い話はあまり得意ではなかったという。
正岡容は『雲右衛門以後』の中で、以下のように批評をしている。
赤ら顔の大男で、可笑しな表現を許して貰へるなら、江戸前の関西節であつた。
後述する小柳丸なども、それとおもふ。江戸っ子に共感できる関西調なのである。
この人、『五郎正宗』などもやつたが、『村政勘次』の鼠阪の斬抜けのみがおもしろかつた。土木に取材したもので、達磨茶屋のやうなところへ刑事が張込む。そこを勘次が斬抜ける。その刑事の従けてゆく姿を、大兵肥満、船頭然とした雷太郎は、絶えず扇子を左の手から右の手へ、また右の手から左の手へ、奇妙にうつしかへながら、それで拍子をとつて歌ひ、描いた。雷太郎などは所詮が二流以下の看板だつたらう。が、近世では僅にのこされてゐるこの種の得意の素材をおもしろく語り得る一人だつた。で、掲げた。
昭和十一年ころ、死んだ。
正岡容は二流以下と滅茶苦茶貶しているが、実際はラジオや劇場にも出る中堅株であった。曲師は京山小糸という女性が長らく務めていた。
1929年7月16日、JOAKに出演し「祐天仙之助」を放送。
1930年4月1日、JOAKに出演し「村正勘次」を放送。
7月30日、JOAKに出演し「村正勘次」を放送。続きもので読んだらしい。
1930年11月、ヒコーキレコードより『五郎正宗孝子伝』を吹き込み。日文研で聞けます。
12月7日、JOAKに出演し「善助煙草の由来」を放送。
1931年10月14日、JOAKに出演し「弥作の鎌腹」を放送。
1932年2月12日、JOAKに出演し「北条三郎」を放送。
1932年4月27日、JOAKに出演し「神崎弥五郎」を放送。
1933年3月16日、JOAKに出演し「村正勘次」を放送。
1934年3月17日、JOAKに出演し「北条三郎」を放送。
1936年5月14日、JOAKに出演し「天保旅日記伊香保土産」を放送。
これが最後の公の放送だったらしく、間もなく倒れて没したという。弟子の一人が「二代目雲井雷太郎」を襲名したというが、こちらも早く廃業した。
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