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女剣劇不二洋子の父・桃中軒雲若
人 物
・本 名 迫 出雄
・生没年 1890年~1972年秋
・出身地 広島県 廿日市市
来 歴
桃中軒雲若は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。浪曲師としての活躍はあまり長くなかったが、貰った養女を一流の剣劇女優に仕立て上げ、「不二洋子」として満天下に知られた。後年は娘の興行、台本の執筆の傍らで活躍。興行師として一時代を築いた。
『浪曲ファン3号』(1971年11月号)の安斎竹夫「この人あの時代」に詳しい聞書きが出ている。経歴は右の通り。
迫出雄。明治二十三年生まれ。十四歳で祖母の家を飛び出し、放浪ののちに桃中軒雲右衛門の弟子になった。数え年で十五、六の頃である。貰った名前が雲童、のちに雲若、酒井雲の兄弟子に当たる。アメリカに出稼ぎに行っていた父母の帰国で、門を辞し、長じて不二洋子一座を組織、女剣劇の興行で満天下に名を売った興行師である。八、九年前、上野本牧亭で村上元三氏ら招いて、師匠ゆずりの雲節を三席唸ってビックリさせた。いま北千住の寓居で自適、浪曲を聞き歩くのを唯一の楽しみにしている。八十二歳になった。九州時代の雲右衛門を聞いてみた。
実家は広島であったが、父母はアメリカへ出稼ぎに行っていたというのだから時代を感じる。祖母に育てられたのもそうした事情を含んでいるのだろう。
『廿日市市の歴史』によると、迫は「広島県佐伯郡平良村上平良」の出身だという。
10代で家を飛び出し、放浪生活の末に浪花節の世界に飛び込んだ。そのことも『浪曲ファン』の中で語っている。
――おばあさんの所を飛び出して、雲右衛門の弟子になるまでを簡単に
わたしの家は広島で、宮島が一望できるところでしたが、家出したのは、おばあさんがうるさくてね。活版屋で文選の小僧をやっているとこを知り合いの医者に見つかって連れ戻されたりしたが、また飛び出してしまって、呉のおばさんとこや、江田島のおじさんのところに行って怒られたり。結局学校の同級生が九州の三池炭鉱にいたんで、それを願って行った。友人は故郷に帰ったけど、わたしは残った。妙正丸(?)という船の炊事小僧をやったり、土方をやったりでしたが、芸人になったのは佐世保じゃった。
佐世保に福燕(?)という座長がいて、一座に入れて貰い、その晩から寄席に出た。浪花節をやったんだけど、マクラしか出来ない。段ものがやれないので小雀某とかいう人に教わったことがある。のちに伊万里のある座長を頼って行き、また更に唐津に行き、博多に行き、そこで春光斎という浪花節に弟子人りした。そこから雲右衛門先生のところに入れて貰ったというわけや。――そうすると浪花節は小さい頃からくれたやれたんですね。
迫 むかしは村にいろんな芸人がきたもんです。デロレン祭文や歌祭文・源氏節なんかね。歌祭文なんか素人がみんな習ったもんですよ。女が人形を前に「平井権八」や「山椒太夫」を語ったもんです。生家の近所に藤原という家があって、 その人形を大事にしていましたね。二百二十日になると町に持って行ってみせたものですよ。
浮かれ節も流行ったな。一座、五、六人で太棹の三味線で水調子といって、三下りの調子の低いもので節の最後が下るのが特色なんです。見台を置いた太夫と同じようじゃった。デロレンはわらじばきでホラ貝と錫杖を持って、これは一人歩きでした。
浮かれ節の芝居もやりましたよ。斬られて死んで行くヤツが”わたしは斬られて死にする……”なんて節を語りながら倒れるんですよ。これは声と節さえよければ客が喜んだ。――春光斎から雲右衛門のところに行った訳は
迫 春光斎は九州師の東節といって、吉田大和之丞の二号(先代春野百合子)のお父さんだ。この人の節が難かしくて、やれない。雲右衛門に紹介して呉れといってね。”そう手軽に行くもん””と云っていたが、一週間ほどで雲右衛門先生のところに連れて行ってくれたんじゃ。――入門はきびしかったのですか
迫 先生は声を大事にした。わたしはかねて覚えていた講談本の「雷電為右衛門」をやったんだが、声にほれ込んでくれた。入門が許されたときはしかったなあ。雲童という名を買いました――その頃の雲右衛門はどんな様子でした
迫 家は博多の東松原というところで、大きな家でした。すでに髪を長く総髪にしていた。その頃の雲右衛門先生は大した評判で、九州中の芸人がみんな博多に集まったほどで、名前も何々右衛門というのが流行してね。東京亭菊丸が菊右衛門と変えたりで……。
10代の若い青年だった事もあり、「雲童」と名乗った。師匠の雑用や巡業をこなしながら、芸を磨き上げた。時には寒中に出て声を出し、稽古を励んだり、巡業中流しの真似事をして金を得るなど苦労も多かった。
後年、師匠から独り立ちをして「雲若」の名前をもらう。師匠が東京に出ていった際は同行せず、九州を地盤に活動を続けていた。同じ少年浪曲師として出発した桃中軒如雲と仲が良かったという。
雲右衛門が東京に移った後も師弟関係は続き、何かあれば雲若が参上するという関係であったという。
師匠譲りの「義士伝」を筆頭に「召集令」「血染めの地図」「水戸黄門」「正宗孝子伝」など色々なものを読めた。雲節の継承者としても活躍し、地方では結構な人気を持っていたという。
1912年6月、広沢呂虎、吉田小円と共にハワイ巡業。当時は未だハワイ巡業が珍しかった関係もあってか、写真付きで興行案内が掲載された程であった。なぜかチラシでは「六代目雲若」と紹介されているのだが詳しい事情は不明。
1916年夏、シンガポールを巡業。昼夜合わせて6演目を公演するというハードスケジュールであったが、これを難なくこなしたというのだから相当な喉の持ち主であった。
この巡業直後に師匠の雲右衛門が死去。臨終には間に合わず、死んで荼毘されたのちに改めて墓参りへ行ったのだという。
この頃、知り合いの子供を引き取り、「迫洋子」と名付けた。この子が後の不二洋子である。
雲右衛門亡き後も一応浪曲師として活動を続けていたが、両親が帰国した事に伴う諸事情やなんやらで桃中軒一門を離れた。不二洋子の育成に力を注ぐ事となる。
1917年に不二洋子の初舞台を踏ませ、以来、娘と共に劇団を率いた。剣劇もやれば浪曲もやる、バラエティ一座だったと聞く。
元々浪曲を演じていて様々なネタをそらんじていた日出雄は娘のためにドンドンネタをこさえ、一座の棟梁として奮闘を続けた。台本の執筆から演技指導、興行の打ち合わせから売り込み、時には自身が浪花節を演じて客を満足させるなど、八面六臂の活躍だったという。
娘の洋子の活躍と名声は日に日に増していき、1934年に「不二洋子劇団」を結成。日出雄は娘の後見役に回った。
不二洋子の一座は保良浅之助の籠寅興行部に抱えられ、大阪や東京の劇場に進出。華やかな立ち回りと官能美を全面に押し出した「女剣劇」を売りにして一時代を築いた。日出雄は娘のために台本や指導などを行って余生を送っていたという。
娘が東京で爆発的な人気を博して以来は、興行師として東京に定住。娘の興行の窓口の一つなった。
戦時中、女剣劇の活動がうまくいかなくなり苦境に立たされるが、戦後女剣劇ブームで盛り返す。北千住に居を構え、悠々自適の生活を送った。
女剣劇ブーム衰退後は隠遁生活を送り、不二洋子劇団の解散まで静かに見守りながら、自身は浅草や近郊の寄席に出没して、浪曲や演芸を聞きまわる好々爺然とした日々を過ごした。
1971年に安斎竹夫の取材を受け、貴重な談話を残した。
それから1年足らずの1972年秋に82歳でなくなった。1974年に刊行された安斎竹夫『浪花節の世界』では「一昨年秋に82歳で亡くなった」という記載がある。
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