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桃中軒から港家へ・港家小柳丸(二代目)
人 物
港家 小柳丸(二代目)
・本 名 早川 準吉
・生没年 1901年~1970年10月16日
・出身地 山梨県
来 歴
港家小柳丸(二代目)は戦前戦後活躍した浪曲師。元々は桃中軒甲右衛門門下の浪曲師であったが、師匠のススメで港家小柳丸の門下に入り、林伯猿と東家楽燕と肝いりで二代目小柳丸を襲名した特異な人物であった。
芝清之『浪曲人物史』によると、山梨県の出身で地元のハタ屋に奉公していたが、叔父を頼って北海道へ渡る。同地で叔父の手伝いをしていた17歳の時に、職場の近く(現在の夕張)に桃中軒甲右衛門と三升家一俵が一座を組んでやってきた。それに魅了された早川青年は叔父の許可を得て、甲右衛門に弟子入りをした。
甲右衛門は初代桃中軒星右衛門の門下生で、雲右衛門系統の節と演題を得意としていた人物だったという。一応の実力はあったが中韓版で終わった。小柳丸からしてみれば、初代桃中軒雲右衛門は大大師匠に当る。
弟子入りした彼は「桃中軒翠雲」と名付けられ、師匠について歩いた。やはり師匠の影響を受けて、雲節を会得し、雲風の演題を得意としていた。
21歳の時に徴兵検査に合格し、3年間ほど兵隊生活を務める事となる。24歳で復員し、「桃中軒星右衛門」を襲名。この名前で全国・満洲朝鮮まで放浪を続けることとなる。
1927年秋、桃中軒白雲(雲右衛門名義)と共に朝鮮・満州を巡業。
1927年11月23日、朝鮮放送に出演し(JODK)、「小村と魚竹」を放送。
1928年4月28日、JODKより「山鹿護送」を放送。
星右衛門を襲名したものの、師匠の甲右衛門は病弱で思うように弟子の売り出しに力を注ぐことができなかった。甲右衛門は大正末より上京し、大看板と共演していたが、こちらも売り出す事はなかった。
当人も1930年頃に東京に居を構え、一枚看板として奮闘を続けていたが、思うような結果を生み出せず苦労の日々を送っていた。
1930年12月には、漫才の東喜代駒、漫談の江戸家猫八と共に浅草昭和座で披露目を行っている。相応の人気は集めたが、個人の人気と実力評価にはつながらなかった。それでも一応津田清美や木村重友などと共演している。
そうした弟子の惨状を憂いた甲右衛門は、修業時代から仲の良かった初代港家小柳丸に斡旋を頼み、彼の一門に加わるようになった。ただ小柳丸を私淑しつつも依然として雲節の芸で舞台に立っていたという。
1931年12月、正式に小柳丸の弟子になり、「三代目港家小柳」を襲名。深川桜館で小柳丸、華柳丸、東武蔵などと共に改名披露を行っている。
この襲名を機に雲節を捨て、関東節に転向。この節の転向は、中京節を得意としていた小柳丸の贔屓とあまり相性が良くなく、小柳丸のファンが小柳にはつながる事はなかった。
1935年、小柳丸が死去。華柳丸か小柳のどちらかが襲名披露のレースに立ったが、皮肉屋で敵も多かった華柳丸に比べ、小柳を推す声が多かった。
その味方の中でも特に力になったのが林伯猿であった。伯猿は持ち前の宣伝力と弁節で、小柳丸の名跡を預かる東家楽燕を説得したという。『浪曲ファン』(64号)の中で、
それに引替え小柳は声もいいし行儀がいい、併しこの人桃中軒甲右衛門の弟子で星右衛門といい、小柳丸からは名前を貰つたいわゆる名前弟子という弱味がある。番頭の山忠と言う人が熱心で、こう言う事は林伯猿に頼むのが一番と、その同意を求めたところ、伯猿も同調して、小柳丸の名跡を預っている東家楽燕に頼みに行った。大御所楽燕は下情にうとい殿様の事とて伯猿の能弁に口説き落とされ、小楽改め二代目小柳丸襲名披露興行が、東燕、伯猿等が出演して浅草宮戸座で華々しく幕を開けた。
という逸話が紹介されている。この襲名直後、山忠は過労で死んでしまい、小柳丸を悲しませたが、その幽霊が伯猿の元に現れ、関係者を驚かせた――という奇談が残っている。
1936年12月、宮戸座で「二代目港家小柳丸襲名披露」を実施。東家楽燕、鼈甲斎虎丸、天中軒雲月、浪花亭綾太郎などが出る豪華版であった。
翌年の春にかけて襲名披露を大々的に行い、一枚看板となった。
ただ、襲名後も小柳丸節を継ぐことなく、独自の関東節と雲節を貫いたので、少なからず初代ファンの反発を受けた。芸幅は広く「国定忠治」「義士伝」「新門辰五郎」「清水次郎長伝」「源太時雨」といった古典作品から初代譲りの「亀甲組」「深川裸祭」「紀伊国屋文左衛門」、「戦争美談」「旅笠道中」「英国密航」といった新作を読んだ。
1937年2月、キングレコードから「忠治地蔵」を発売。この頃、キングと専属に近い契約を結んだらしい。
1937年3月、キングレコードから「新門辰五郎」を発売。
1937年4月、キングレコードから「清水の頑鉄」を発売。
1937年5月、キングレコードから「忠治関宿落ち」を発売。
1937年6月、キングレコードから「紀伊国屋文左衛門」を発売。
1937年7月、キングレコードから「新門辰五郎売り出し」を発売。
1937年8月、キングレコードから「お才時雨」を発売。
1937年9月、キングレコードから「文七元結」を発売。
1937年10月、キングレコードから「深川裸祭」を発売。
1938年1月、キングレコードから「金看板の甚九郎」を発売。
1938年3月、キングレコードから「戦場の兄弟」を発売。
1938年6月、キングレコードから「三平涙の早籠」を発売。
1938年8月、キングレコードから「甚五郎陽明門の人柱」を発売。
1941年の番付では前頭二枚目。東家楽浦と並んでのランクイン。芸豪だった様子がうかがえる。
戦後も活躍を続けたが、あまりぱっとする事はなかった。当人の病弱の気配もあったようである。妻で曲師の港家嘉津子と二人三脚で古老として活動した。
1970年に69歳で没。死後、嘉津子は昔なじみの玉川喜一朗に三代目小柳丸を譲ることに決め、目出たく彼に名前を継がせることに成功している。
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