新物読みの長谷川梅雄

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新物読みの長谷川梅雄

 人 物

 長谷川はせがわ 梅雄うめお
 ・本 名 明松 梅夫
 ・生没年 1906年6月25日~1969年12月7日
 ・出身地 福岡県 田川郡 上野村

 来 歴

 長谷川梅雄は戦前戦後活躍した浪曲師。元々は雲井一声の弟子で地味な存在であったが、新物読みでめきめきと頭角を現し、戦後売れっ子になった。大幹部を間近にしながらも60代で夭折を遂げた。

 出身は福岡県。手元にあるパンフレット「府民劇場第88回公演浪曲を聞く会」によると――

明治39年、福岡県に生れる。幼少の頃雲井一声に師事。昭和元年松島広沢館に雲井一富士の名で初舞台。以来、自身の一座を結成、グループの旗頭として全国を巡演。昭和16年4月千日前愛進館の舞台を契機に長谷川梅雄と改名今日に至る

 また、『東西浪界写真名鑑』によると、

 本  名  明松梅夫
 生年月日  明治三十九年六月
 師  匠  雲井一声
 初入門年月 二十一才
 藝(十八番)乃木将軍、満州国
 趣   味 スポーツ
 初 舞 台 二十一才、大阪松島広沢館

 弟子の雲井富士子氏から聞書きを取ったメモによると、

「明治39年6月25日生 福岡県田川郡上野村(赤池炭坑)出身 18.9歳の時に桃中軒虎右衛門に弟子入り (福岡県築上郡築上町大字椎田) 芸名 桃中軒梅若 そして大阪へ行き雲井一聲に再弟子入り 芸名 雲井一富士」

 との事である。若い頃に一度地元九州で活動する浪曲師について芸を磨き、大阪に出て本格的に浪曲師になったパターンである。

 師匠の雲井一声は独学に近い状態から一枚看板を掲げた努力の人で、長い間地方回りで芸を磨いていた。一声に入門した頃はまだ巡業が多く、地方巡演で芸を磨く事となった。

 そうした関係からか大阪へ出てくるのは遅く、文献によっては「1927年入門」というのもある。1927年は一枚看板になった都市とみるべきだろうか。

 長らく地方巡業が主だったそうで、番付への掲載は遅かった。愛進館で改名披露を行ったのも30代後半だったというのだから遅い。

 若いころは師匠譲りの堅い作品を読んでいたが、長谷川梅雄と改名してからは文学作品や偉人伝を読むようになり、着実な地位を築いた。「中野正剛伝」「松下幸之助伝」「殉職美談」「日蓮上人」などが十八番であった。

 滅茶苦茶声がデカいのが売りで地方では高い人気を誇ったという。古い雑誌に「小屋が割れるくらいの大音、見事なもの。セーブしてもあの大声なのだから本気を出したら……」とその並外れた声を褒められている。

 戦後、多くの浪曲師が廃業・引退する中で、独自の生き残り策を見つけ、中央でも売れるようになる。

 1947年、妻の紹介で小倉米子が入門。「長谷川梅千代」と名付けられ、少女浪曲師として舞台に立つようになる。この人は雲井富士子と改名し、平成まで舞台に立っていた。

 人員不足の中で売り出したこともあり、次世代の担い手と目された。戦後まもなく再編された浪曲親友協会の選挙で当選し、評議員に連なった。

 1950年、久方ぶりに復活した浪曲番付で「惑星」として、天龍三郎、天光軒菊月(三代目満月)と共にランクイン。新鋭というランク付けだろうか。

 1952年12月26日の大阪新歌舞伎座で開催された浪曲大会に出演。新作の「中野正剛」を公演している。

 1953年の番付では、近江源氏丸に続いて前頭二枚目にランクイン。

 1955年の番付では前頭筆頭に就任。

 1957年3月23日、毎日放送の「浪曲研究会」に出演し、「殉職美談帝釈峡修学旅行」(神竜湖遊覧船沈没事故)を口演。

 1958年2月22日、「浪曲研究会」に出演し、「呼子鳥」を口演。

 1959年1月24日、「浪曲研究会」に出演し、「日蓮上人」を口演。

 1960年8月6~8日、新歌舞伎座で行われた浪曲大会に出演。顔ぶれは、松風軒栄楽、京山小円、春日久千代、梅中軒鶯童、天竜軒大洲、日吉秋斎、吉田三笠、富士月子、斎東満、吉田奈良丸、松浦四郎、日吉川秋水、太刀原幸門、広沢晴海、長谷川梅雄、中山恵津子、吉田朝日、吉田奈良千代、梅の井鶯、近江源氏丸、吉田一若。

 1961年の浪曲番付では「別格」としてランクイン。

 1964年の浪曲番付では「名将」として一枚看板で選出されている。

 1966年開催された浪曲大会に出席。写真とプロフィールが掲載されている。

長谷川梅雄
謹厳そのものと見受けられる風貌軍人なれば少くとも佐官というところか、それが違えば建築業の親方、どちらにしても芸能人とは受取れぬがっちりとした体軀、そのいかめしい容姿に似合わず本人は真に温和な好人物だ、家には神様を祀り御祈禱をやって幾人かを救った事歴も持っている。
九州で暫く舞台を踏んだあと大阪に出て雲井一声の門人になって、始めは雲井一富士と名乗っていた、堅実な読み口で好感が持てる。在来の乃木将軍伝を新しい見地からもう一度書き直して演じて見たいと、最近しきりに勉強している。人物に欠点はないが鼾が大きいこと浪曲随一で、ともすれば同室で就寝することを敬遠されることがある、人には何か一ト癖あるものである。

 1969年11月29日、府民劇場第88回公演「浪曲を聞く会」に出演。「松下幸之助伝」を口演している。

 この出演からわずか10日後の12月7日、心筋梗塞を起こして急逝。これからの円熟が期待される中での死であった。

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