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京山恭安斎の息子・京山光丸
人 物
京山 光丸
・本 名 吉村 清吉
・生没年 ??~??
・出身地 大阪?
来 歴
京山光丸は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。京山中興の祖・京山恭安斎の実の息子だというが、謎が多く残る。菅原千鳥と一時期巡演していたが、余りにも下手なために遂に出世できなかったという。
経歴は謎が多い。本名は『東京明覧』から割り出した。京山恭安斎(畠洲)の息子だったそうで、宮崎滔天『宮崎滔天全集第2巻』の自伝の中に――
已むを得ず京山光丸といふ同業の先に絶りて居候となり、更に大阪に下りて同君の父君伯州翁に寄食し、同君の世話にて京山福丸君(今の福右衛門君)の一座に加はり……
という一節を見る事ができる。ただし本名が違うため、これが正しいかわからない。芸能界のしきたりで師匠を「親父」と呼ぶ人もいるため、これに宮崎滔天が早合点をしたという可能性も否定できない。
明治中頃に恭安斎に弟子入りし、芸を磨いた。京山若丸、小円などとは兄弟弟子に当る。ただし芸はあまり上手くなかったという。
独立後、関西や四国の巡業で活躍。この頃、淡路島で出会った農家の娘をめとり、一緒に旅をしている。これが京山光高(菅原千鳥)である。
当初は妻に荷物持ちをさせていたが、妻の方が浪曲がうまいことが判明し、あべこべに自分が荷物持ちとなったという。
妻は1902年頃、その人気を買われて上京。光丸も1903年頃、光高を追って上京し、しばらく寄席に出ていたがパッとする事はなかった。
ただし、1904年に出された『東京明覧』では浪花節界を代表する一人として光高と共に選出されている。
その後も光高と一緒に歩いていたが、離婚。離婚の原因は光丸の芸の下手さにあったという。
『季刊浪曲展望7号』(1978年5月号)に掲載された広沢瓢右衛門の回顧録によると、
この京山光高と云う人は面白い人だった。淡路島の生まれで田舎回りの浮かれ節、京山光丸と夫婦になって歩いていた、元々農家の娘だから三味線が全然出来ないので御飯たき、洗濯、荷物運びでついてまわっているうちに自然に芸が判って来た。
一番さきに判ったのが自分の男の光丸が、つくづく芸の下手な事だ、それを毎日聞くうちに夫としてのうやまいが持てなくなった。
あんた、昨日の芸題あれどうしたのん、理屈があわないわ、あれだったらお客さんが喜ばない、私しだったらこうやるわ、馬鹿いうな貴様でわかるか、生意気云うなら貴様今晩舞台にあがってやってみよ。エエ私しあの位いならやるわ、其晩舞台に出た、非常にいい声だ喋べる事に順序がある光丸も吃驚してこれからずっとお前やれ、本名お高と云うから名前を光高とつけた、毎晩半年程やっているうちに光高が座長になって光丸が前座に落ちた。
一寸光丸さん、永らく御世話になりました。私しこれでお別れします、どうか幸福に暮して下さい、勝手に離婚宣言してスイスイ東京に走って終って名前も菅原千鳥と改名して、東京で非常に人気になった。今の伊丹秀子さんもこの千鳥さんに永く指導をうけていた。晩年、麗花さんの処によく遊びに来て面白い話を聞かせてくださった。
ただ、光高は京山恭安斎の浪人部屋に入って修業をしているのを見ると、光丸を頼って恭安斎の下に入ったのではないか、という推測も経たない事もない。
千鳥と別れた後は一人で活動していたようであるが、如何せん芸がうまくないので伸びる事もなく、そのままポシャってしまった。
それでも父の恭安斎が没する頃(1917年)までは第一線にいたようである。
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