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師匠に尽くした女浪曲師・吾妻おとめ
人 物
吾妻 おとめ
・本 名 佐藤 シズエ
・生没年 1920年~1999年以降
・出身地 新潟県
来 歴
吾妻おとめは戦前戦後活躍した女流浪曲師。東家三燕の門下からスタートし、戦後鈴木貫太郎と昭和天皇の苦悩を描いた『血涙の御前会議』という浪曲でスターダムにのし上がった。一時は二葉百合子や天津羽衣を凌ぐ人気と実力を誇ったが、師匠三燕介護のために浪曲界を引退した。
経歴は『月刊浪曲』(1984年4月25日号)の「吾妻おとめ27年間の師の看病」に詳しい。
〽親子は一世 夫婦二世
主従は三世の 深みどり
浪曲のマクラに昔よく使われた文句だが…まさにその通り、吾妻おとめが師匠東家三燕に尽した孝道は並大抵なものではなかった。
吾妻おとめ(本名・佐藤シズエ)が三燕(本名・松本源太郎)の門を叩いたのは一八歳の娘ざかりであった。三燕は東家楽門下で、現幸楽、燕大丞、菊燕、三楽の兄弟子に当る。三燕に入門した当時の彼女の芸名は「忍」といい、後に「小燕嬢」を名乗った。
東京青山にあった三燕宅で修業を積み、戦後、作家吉野不二郎の命名で「吾妻おとめ」と改名した。
また、唯二郎『実録浪曲史』には「吾妻おとめは新潟の漁村の生まれ。十五歳で上京」とある。
1941年の番付では前頭12枚目。東家小燕嬢名義で登録されている。
1942年、中国慰問へ出発。「陸恤庶發第四四五號 船舶便乗ニ關スル件申請」に詳しい記録が残っている。生年はここから割り出した。
一、往航 昭和十七年七月上旬 宇品發 上海行
一、復航 昭和十七年九月上旬 上海發 宇品行種 目 藝 名 本 名 年齢
團 長 舞踊 三木秀人 仝 上 三三
仝 江波愛子 東原恩愛 二六
仝 高橋輝子 仝 上 一九
司會漫談寸劇 松平陽 堀孝治郎 三六
漫談寸劇 澤一男 岡田浅吉 四〇
歌謡曲 桐野芳蘭 金子千代子 二〇
アコーデオン寸劇 阿部和親 仝 上 三一
浪 曲 東家小燕嬢 佐藤シズエ 二二
曲 師 東家小よね 小野よね 五二
なお、上の記事では「戦後吾妻おとめと改名」とあるが、1943年の番付時点ですでに「吾妻おとめ」と登録されている。
1943年の番付では名花としてあげられ、既に写真入りで紹介されている。
東京大空襲で師匠の家を失い、戦後は世田谷に居を構え、師匠と共に暮らしていた。
戦後、吉野夫二郎という良きパトロンを得、吉野の手で鈴木貫太郎の苦悩を描いた「血涙の御前会議」を発表。これが大反響を取り、一枚看板となった。
1951年2月、第一回読売浪曲コンクールに出演し、この作品を演じている。この時は優勝こそもぎ取れなかったものの、大反響を取り、明治座でリサイタルを決行するにまで至った。
1951年3月31日には、NHK第2より『血涙の御前会議』を放送している。
その売れっ子ぶりのすさまじさは『月刊浪曲』に詳しい。引用してみよう。
吉野はおとめの為に、太平洋戦争を終了させるために行われた“御前会議” 台本として執筆し、当時の内閣総理大臣鈴木貫太郎を主体に、天皇の胸中、 閣僚たちの苦ちゅうを見事に描き出し、演題もズバリ「血涙の御前会議」と称して、鈴木貫太郎未亡人、元農相石黒忠篤氏、内閣書記官長迫水久常氏、厚生大臣岡田忠彦氏、軍需大臣島田貞次郎氏、文部大臣太田朝造氏、他大蔵内務のお歴々を招待して、昭和二六年五月明治座に於て発表会を行った。
各新聞社もこのニュースを大々的に取扱い、舞台の出来栄えも上々で吾妻おとめの名声は全国的に広まった。
これを機におとめは一座を組織して全国を巡演、各地で「血涙の御前会議」を公演してローカル紙にも大きく報じられた。
また『実録浪曲史』にも――
五月五日、同町の「鈴木貫太郎遺徳を偲ぶ会」に招かれて口演する。 故人の親友、元駐米大使野村吉三郎、同国務相下村宏などが列席する。さらに六月三十日、明治座で公演の際は、鈴木未亡人孝子刀自をはじめに多数の政官界の名士がみえた。
おとめは孝子夫人の知遇をえて、夫人自ら描いた模様のテーブル掛と舞台着を贈られている。折から地方でも追放が解除され、戦没者の祭祀や、遺族会の結成、補償問題などが活発になっていた。千葉新聞社では、県の後援同社提供でこの作品を紹介し、郷土名士の顕彰・平和への願いとして、全県下を巡演する。主催は青年団・遺族会などで入場料はおよそ五十円。各地からの招聘が相ついだ。敬老会の席では、招待された老人が板の間に平伏して聞き入る光景もみられたという(『千葉新聞』および関係者の談話による)。 おとめはこの一作によって世に認められ、この一作を携え約六年間にわたり全国を巡業した。
1954年の番付では「新鋭横綱」として別枠扱いである。
1955年の番付でも「新横」として別枠。
1956年刊行の『おなじみ浪曲集』の中では、注目の若手として鹿島秀月、国友忠、広沢虎之助、二葉百合子などと共に取り上げられている。紹介文を見てみよう。
吾妻おとめは、楽燕一門三燕の門人である。かずすくない関東女流浪曲の大家で生来の美声と独特の節廻しは、その華美な芸風と共にますます磨きがかかり、将来浪曲史に名を残す浪曲家になることであろう。「涙の御前会議」という演題はたの追従をゆるさぬもので、おとめを今日あらしめたものである。地下に眠れる鈴木貫太郎伯も浪曲に引っ張りだされて苦笑をきんじえまい。
順風満帆の出世コースを歩んでいたが、1956年に師匠の三燕が脳溢血で倒れ、寝たきりになった。おとめは師匠の恩を返すために、出世ルートを蹴って、介護の道に入った。
その後のことは『月刊浪曲』に詳しい。
昭和三一年に巡業先の天草で、師の三燕が脳いっ血で倒れた。人一倍師匠思いのおとめは三燕の妻アイと共に看病を続けたが、舞台再起を不能と知った同三二年に、師と共に彼女もいさぎよく浪界を引退した。
東京・荒川区の自宅で養生する師三燕を看病しながら、妻アイの手ほどきを受けて和裁の仕事を会得していった。
半身不髄の師の下の世話までしておとめは一生を独身のまま尽した。 三燕の妻もおとめを我が娘のように可愛がっ てくれていたが、その妻は三燕を残したまま昭和五四年に他界した。
以来、取り残されたおとめは、和裁一筋に生活を頼り、毎日かいがいしく師匠を看ていたが、この三月二七日、 遂に三燕もこの世を去った(八一歳、法名 新日反元徳翁良源信士)。
思えば三〇年に近い歳月を、娘盛りを棒に振って師匠のために尽しぬいたこのおとめの深いえにしを…何と評価したらよいものだろうか。余りにも身勝手な自分よがりの多い現代に、まことに尊い花一輪ではないか。「楽燕会」のメンバーである横田十三子女史、 幸楽、燕大丞、菊燕、三楽の各師や、楽燕未亡人山本八重子さんらは、心からおとめの師に尽した心情に涙していた。
これもある意味では昭和の美談――今では「介護問題」と炎上しそうな一件である。貧困と師匠の介護に半生を費やしたおとめの心はどんなものだっただろうか。
師匠に死なれた後は、東家一門と交流をしながら、和裁の先生として一生を終えた。『実録浪曲史』の出た1999年にはまだ健在だったというが――
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