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名古屋浪曲界の雄・吉川善確
人 物
吉川 善確
・本 名 山下 建橘
・生没年 1869年12月12日~??
・出身地 名古屋?
来 歴
吉川善確は浪花節黎明期に活躍した浪曲師。関西・名古屋近辺の浪曲界の雄として知られ、吉川一門形成に大きな権力を持った。戦前高い人気を誇った桃中軒桃子は善確の娘である。
経歴には謎が多いが、浮かれ節の吉川文確(文鶴)に入門。当初は「善鶴」と名乗っていた模様。当時は浪曲の寄席などがなかった関係から巡業やヒラキで芸を磨き、一枚看板となった。
末広亭辰丸(清風)や二代目浪花家辰之助と面識があり、1891年に辰丸が喧嘩に巻き込まれた際、仲裁役を買って出ている。
1889年5月、娘のスウが誕生。この子が生まれた時にはまだ名古屋で暮らしていたという。
1890年代に入り、浪花節劇場が作られるようになると、各地へ出演するようになった。娘にも浪曲を仕込み、「吉川花子」と名付け、舞台に立たせた。
1895年4月14日、名古屋福寿亭に出演している様子が、『近代歌舞伎年表』にある。
福寿亭 14日~ 浮れ節 吉川善鶴、都家小さん、吉川文鶴、吉川小竹
1896年2月6日より、名古屋宝生座に出演。
宝生座 6日~ 中京浮れ節 吉川文鶴、三河屋一、東三光、浪花家辰之助、吉川善鶴
その後、名古屋や大阪を行き来する生活を送り、1901年頃に上京。
1901年12月、「吉川善確」の一枚看板で芝伊皿子亭に出ている様子が確認できる。以来、東京に住み着き、東京の一枚看板となった。
同年12月16日より始まった神田市場亭の公演では、娘の花子と共に二枚看板で出演している様子が確認できる。
娘の花子はメキメキと売り出し、自身も古老として活躍。名古屋出身の早川辰燕や港家大夢と仲が良く、たびたび競演を果たした。
1904年刊行の『東京明覧』では娘の花子と共に浪花節の人気者・第一人者として記録されている。
善確の息子・山下義憲と神田中学で同級生であった浪曲作家の小菅一夫は、この友人の関係からたびたび吉川善確の芸を見たという。『浪曲旅芸人』のあとがきで――
この善確は中京節だった。どういう経歴の人か詳しく知らないが、寄席打ちの浪曲家では立派な真打だと定評があった。若い頃名古屋あたりでみっちり修業をしたのだろう。格調高い演技で、金襖ものや時代物が得意だったらしく「千代田の刃傷」「仙石騒動」など、いまだ耳に残っている。その善確の芸に魅了されて、わたしの浪曲の鑑賞修業がはじまった。
とその芸を回顧している。小菅は雲右衛門も知らなければ、奈良丸も小円も知らないがこの善確だけは聞いた――と不思議な関係を記している。
1913年3月7日の『二六新報』に、
◇善右衛門「黒田」は物真似が聴けて当人が聴けず、善確「中江篤介」に至っては既に定評ある甲州名物、桃子「岡野金右衛門」は会話が台詞で雲と我流の相の子節、これで大入はイヤハヤ女ならでは夜が明けぬ
と高く評価されている。
1915年の名簿を見ると、名前が出ているのでこの頃までは健在だったのだろう。
1917年刊行の「大日本浪花武志大番付」では、検査役として木村重松や京山大隅などと共に記載されている。
娘は人気浪曲師の早川小燕平に嫁ぎ、子供も出世した事もあって安楽な晩年を送ったらしいが、その晩年は詳しくわからない。
昭和に入るとその名前が一切確認できなくなるので没した模様か。
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